道具とホスピタリティ

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自然農は土を耕さず、草や虫を敵としませんが、
同時に暗黙の了解のように、手作業が中心になります。
それは「問題を起こさない生き方としての自然農」と言う通り、
機械による過剰なエネルギー消費や、環境破壊をしないためであって、
健康な暮らしには、健康な土から得る健康な作物が不可欠と考えるからです。
環境や健康を害してまで大量生産し、医療と教育で被害を補うのではなく、
最初から健全な自然状態を維持することで、健康な暮らしを守るのです。

こうした考えは、産業中心の拡大経済社会が台頭するまでは、
真っ当な人間生活の基本として、当たり前のことだったのでしょうが、
あらゆるものをおカネ換算しで、合理的経済拡大を目指す頃から変化しました。
人間の能力を補完的に助けるはずだった道具が、人間を置き去りにして、
人間を補完的に使うことで、合理的に生産拡大するようになってしまった。
いつのまにか人間性を置き去りにして、生産力を高めた道具と技術は、
人間を幸せにすることなく、ひたすら生産力を伸ばしてきたと言えます。
これでは、いくら経済が大きくなっても、人は幸せになれません。

それでは、どうすれば人は幸せになれるのか?と考えると、
道具が道具として、人間の能力を補ってくれた時代にヒントがある。
この辺の事情を、山本哲士さんは、ホスピタリティによって考えます。
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 道具は、人のエネルギーを使って動かすハンド・ツールと、
 人間外のエネルギーを使う、機械ツールとに分離した。
 これが、共存して相互に働きあい、人の自律性を高めているとき、
 コンビビアルという。だが、後者へ、人の行為をゆだねていくと、
 人の自律性がマヒしていくだけでなく、人間の相互交通がなくなり、
 環境は破壊されていく、そして、人への過剰教育がなされていく。
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そこであらためて、“道具”を人間能力を高めるための位置に再配置し、
企業や機械などのあらゆる産物を、コンビビアルな暮らしに役立つものにする。
こうした考えのもとに、企業の在り方や生産物の方向性を示していけば、
間違った方向性で進められた科学技術の欠陥は、是正できると考えるのです。
マネー経済を尺度とした産業社会に、破滅的な欠陥が明らかになる中で、
世界中が新しい方向性を模索するとき、この考えは大きなヒントになると思う。
学問的な方向から見出された“コンビビアルな暮らし”の大切さは、
命を考えた「生き方としての自然農」と、同じところに辿り着くのです。

将来的に考えても、他に有効な道筋があるとは思われないので、
あらゆる人間の産物は、生産性よりも方向性が大切になるでしょう。
過剰に発達した生産性は落ちるでしょうが、方向性を正すことが出来れば、
人々は少ない生産性の中でも、より多くの幸せを得ることが出来るのですから、
安心安全な社会には、こうしたホスピタリティが必須になってくるのです。
経済効果や合理性ではないなら、僕らは何を求めて社会を形成していけばいいか?
そこにはどうしても、人間とは何か? 何を求めているのかの深い考察と、
求める方向への手法技術の転換が、どうしても必要になってくるのです。

写真は、唐箕(トウミ)を使って米籾の選別をしている自然農仲間です。