カエルの目線
カエルは、小さな虫を捕食して生きていると聞きますが、
しばしばこうした高い場所で、宙を見ているのを見かけます。
こんな空中にも、餌になるような虫がいるのかどうか、
詳しく知りませんが、こうした場所が好きなことは間違いない。
こんな場所で宙を見つめて、いったい何を考えているのか?
しばしばこうした高い場所で、宙を見ているのを見かけます。
こんな空中にも、餌になるような虫がいるのかどうか、
詳しく知りませんが、こうした場所が好きなことは間違いない。
こんな場所で宙を見つめて、いったい何を考えているのか?
カエルなんか何も考えていない、と思うのは簡単ですが、
同じ命を持って生きているものとしては、そう簡単ではない、
何かしら宇宙的な感性を持っているのではないか、とも思うのです。
人間は、例えば奴隷制度があったときには、人種差別をして、
自分たちとは違う民族を平気で殺し、この残忍さは今も続いており、
ナチスばかりか世界各地の戦争で、日常的に見られる光景です。
ひとたび敵と見なされたら、殺して殺して殺して讃えられ、
そこに同じ心を持つ命が殺されることに対する、痛みがないのです。
敵とは何か? 大量殺戮はなぜいけないのか? 勝利とは何か?
そうした根元的な問いかけを忘れて、合理的な成果を求めれば、
味方の犠牲を少なく、少しでも多くの敵を倒せばいいことになります。
ひとたび敵と見なしたら、殺して殺して殺しまくればいいのです。
しかしながら、同じ命を持つものとしての大きな世界観では、
自分を大切にするとは、同じ命の世界を大切にすることですから、
少なくとも命を奪うには、奪う相手に対する敬意と対峙が必要です。
我を表明し相手を知り、お互いに闘う理由を共有して対峙する。
ところが原爆や絨毯爆撃などの無差別大虐殺や、ロボット攻撃では、
命対命の対峙がないので、命を軽視することになるのでしょう。
そう考えると、屠殺(とさつ)場で大量に殺される家畜なども、
何か釈然としない、心に痛みを覚えるのは僕だけではないでしょう。
人目に付かないところで、大量に殺戮し続ける食用の動物たちは、
生きている間から食品扱いで、何一つ命としての自由がない。
ペットもそうで、束の間かわいがったあと殺処分に出すなんて、
命を何だと思っているのかと、やりきれない思いになってしまう。
そんなご都合主義の人間が、もっともらしく何かを考えているなら、
カエルだって同じ、僕らにはわからない哲学があるかもしれない。
そう思ったら、こうして高いところに上って宙を見つめるのも、
ちょっとは、理解できるような気持ちになってくるのです。
僕も高いところから見渡すときに、いろんなことを考えるから・・・