ノーベル文学賞

イメージ 1
 
今年のノーベル賞は、日本人が二人ノーベル化学賞を受賞したことで、
この数日はその話題ばかりが、テレビ新聞を賑わわせているようですね。
いわゆる「物作りの国」は、科学技術こそが国力の基礎と位置づけて、
産業に結びつく研究には、惜しみなく援助をしてきた経緯もある。
そうした産業的な功績は、たしかにすばらしいものだと思うのですが、
今年の文学賞が、ペルーのマリオ・バルガス・リョサ(写真)だと聞いて、
あらためて、人間の新しい可能性について思いを巡らせてみました。

僕がノーベル文学賞に関心を持ったのは、川端康成が受賞したときで、
まだ人生の何も知らない田舎町の子どもは、急激に文学に関心を持ちました。
だけど今思えば、数多くの文学賞受賞者の中で川端康成は特殊な感じで、
ほとんどの受賞者は、社会的な問題を浮き彫りにした作品で認められています。
日本人のもう一人の受賞者である、大江健三郎もそうした一人でしょう。
そして今回のバルガス・リョサも、ペルーで盛んに社会活動をしている人で、
1990年のペルー大統領選挙で、フジモリに敗れたことは有名です。

今回彼が文学賞を受賞した理由は、
「権力の構造の見取り図を描き、個人の抵抗、反乱、敗北の姿を鋭く表現した」
とされていますので、多くのノーベル文学賞受賞者と同じ系統でしょう。
現在のラテンアメリカで起きている、脱アメリカ型グローバル社会に通じ、
新しい文化が生まれる下支えとしても、有用な地位にいるのかも知れません。
しかし僕がノーベル賞作家の作品に期待するのは、川端康成のように、
特に政治的でもないのに、それでいて人間生活の根元を揺さぶるような、
ある種の大きな世界観を示し、その世界観の中へ導いてくれる作品です。

具体的に思い出すのは、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」で、
この作品を読んだときの衝撃は、人生を大きく揺さぶるほどのものでした。
当時はいわゆる自分探しのような旅を続けていて、求めるものが見つからず、
いつのまにか社会に絶望したような気持ちで、暮らしていたのですが、
そうした絶望が、単なる既成事実の延長上のものでしかないことや、
もっと自由に自分を生きれば、世界は開けることを教えてくれたのです。

自分自信は、すべての人の政治参画を促す市民活動をしながら、
好きな文学作品には、直接的な政治色のないものを好むのですから、
何か矛盾していると思うかも知れませんが、まったくそうではないのです。
新しい発想が必要なときに、現状をいくら批判的に描いても難しく、
むしろ文学本来が持っている、世界を創作する力が必要になってくる。
非常識なほど非現実的な表現の中にこそ、目指す方向が見えたりするので、
この自由さが、行き詰まった現状を切り開いて見せてくれると思うのです。

川端康成が受賞記念講演で話した「美しい日本の私」とは何だったのか?
ラテンアメリカが、脱アメリカ型の独特の世界観を示し始めた今日に、
日本にもまた、まったく違う懐かしくて新しい文化があることを示したい。
そんなことを思いながら、ノーベル文学賞のニュースを聞きました。
 
バルガス・リョサの代表的な作品「緑の家」は、文庫本にもなっています。