祈れば祝福♪、呪えば呪詛!

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相変わらず、人間とは何か?なんて考えていると、
やはり心が「その人」の重要な要素であることが知れます。
人が何かをするときは、必ず心の動きがあるわけで、
否定的な心で事に当たれば、否定的な事態が起きてしまう。
うまく肯定的な気持ちで動けたときに、物事もうまく行きます。

人の意見やブログの記事などに対する、コメントでも、
肯定的な心で書く人は、実生活にも豊かさがあるでしょうし、
いつも否定的な人が、実生活だけ豊かとは思われません。
実社会では尚更で、職場でも家庭でも地域社会でも、
肯定的な心で物事を考え、動ける人が、実現も出来る。

そんなのは偶然、とか、条件が整っていなければダメとか、
うまく行かない要素を、自分の外因としか見ない人は、
その時点で否定的な心ですから、うまく行くはずがない。
それに比べて、周囲の環境がいくら困難に思えても、
うまく行くイメージで事に当たれる人だけが、うまく行く。

不思議と言えば不思議ですが、人間世界はそのように出来ていて、
一見困難な事態も、内容をよく知って肯定的要素を見つければ、
その時点で、問題を解決する可能性が一気に高まるのと同じです。
科学的根拠があるかないかは、むしろ後付的に考えることで、
自分の内側からの確信がなければ、科学的根拠もない。

確信という心の状態と、科学という客観的事実は違う?
と思う人は、教育的成果を自分の判断にしてしまっている。
だけど教育で教えられることは、常にある断面でしかないので、
自然現象や社会現象にしても、必ず違う側面もあるのです。
それをどう受け止められるかが、その人の容量なのでしょう。

許容量の小さな人は、誰かから教えられたことで一杯になり、
それ以上のことは受け入れられないので、自分の判断ができない。
一見何事かを自分で判断しているようなときも、一面的で、
否定的な心にしかならないから、攻撃的に解決しようとする。
だけど十分な容量があれば、受け入れて肯定的になれるのです。

同じ一つの何事かをするにも、肯定的か否定的かと考えるなら、
肯定的になれるには、善きことを知っている必要もあります。
善きことを知らずには、確信を持って肯定的な気持ちにはなれず、
善きことを知っている人だけが、自律的に肯定を知るからです。
わからない人は、せめて祝福と共に生きればいいのですが・・・

残念ながら、善きことを知らない人は肯定的にもなりにくく、
勢い否定的になって、それを外因に求めると呪詛になってしまう。
同じ事を、祝福をもって出来る人と呪詛でしかできない人では、
どのように結果が違ってくるかは、誰にでもわかるはずです。
容量を大きく、祝福を持って暮らせる人になりたいですね!