おカネで幸せは買えない?

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中村哲さんの講演の中で、やっぱり一番気になったのは、
それでは僕らは、どう生きればいいのかと言うことでした。
日本政府からの資金で動く、アメリカ軍の横暴をかいくぐり、
時には、数百人の地元労働者をバックに持った発言力で、
米軍から押しつけられる無理難題とも闘う哲さんの話を聞いて、
少しでも彼の応援をしたいと思う人は、大勢います。

寄付や資金援助をして、手助けすることは大切ですが、
僕らの日常生活の延長にある、経済を拡大する政策こそ、
米軍を通じて、彼らの生活を脅かしていることを思うとき、
もっと何か、やるべきことがあることを思わずにはいられない。
それこそ破壊拡大型の経済成長を止めることかも知れません。
哲さんは、何でもおカネ換算する日本政府の愚かさを説き、
そうではない幸せの在り方を、アフガン活動から問うのです。

「軍備で平和は作れない」に関して、共感する人は多く、
平和運動は、軍事そのものに対する反対運動になりました。
平和のための正しい戦争など、古今東西無かったし、
これからだって、そんな自己矛盾したものは存在できません。
同じように「お金で幸せは買えない」ことも自明の理で、
現代の多くの不幸は、お金によってもたらされているのですが、
ここにはもう一つカラクリがあり、システムの問題があります。
それ故に、まだ共感されていない人が多いのでしょう。

お金そのものは道具でしかないので、使い方次第であり、
殺戮と破壊しか出来ない軍備とは、大きく違うのは確かです。
ところが現在のお金システムは、一部の利権者だけを富ますために、
他の圧倒的多数者から、労働価値を吸い上げるシステムとなり、
善良に働く労働は、自動的に価値を縮小されていくのです。
その最大の原因こそ、金融利子システムに他ならないことは、
すでにこのブログでも、何度も取り上げてきたことです。

それではおカネは、その価値を存分に活かすにはどうあるべきか?
アフガンの灌漑用水に使う使うおカネと、僕らの日常に使うおカネは、
どうしてこんなにも、価値の違うものになってしまったのかを考えます。
すると見えてくるのが、何のためにおカネを使うのか主役の問題です。
同じ「生きるために使う」おカネでありながら、一方では人間が主役で、
人間が生きるために労働することが主であり、おカネは労働を助ける。
ところがもう一方の人には、労働はおカネを目的とした行為であり、
労働は、おカネを稼ぐための一つの手段でしかなくなっているのです。

こんな本末転倒の価値観を、正しいと思い込ませたのが金融で、
彼らは人生をマネーゲームにして、人間の価値観を崩壊させます。
「人生はおカネじゃない、・・・だけど」というキャッチコピーは、
おカネの価値に疑問を感じ始めた人々に、最後の抵抗をしています。
「先立つものがないと何も出来ない」「万が一の時に役に立つ」
そう主張して、現在の奇跡的な命の存在を無価値と思い込ませます。
だけどよく考えれば、いくらおカネを積んでも僕らの存在は買えません。

この存在、五感と五体を持って今ここに在ることの喜びが基本で、
この喜びを存分に味わえない、自然破壊的な経済に幸福はないのです。
命の世界には境目が無く、様々な命は深く関わりながら一体ですが、
それを味わうためには、おカネはなるべく少ない方がいい!と、
西欧化する前の、長い日本文化が教えてくれているように思います。
五体と五感を働かせて、生活する人間活動を助けるためのおカネか、
漠然とした不安に煽られて、富の集約に荷担するだけのおカネか、
同じおカネが、一方では人を助け、他の一方では人を損なってしまう。

中村哲さんが「おカネで幸せは買えない」とお話しされたのは、
こういうことだったのではないか、と僕は考えを巡らせているのです。
講演会の後の質問で、哲さんの「選択」の基準を伺ったのは、
この微妙な問題を、どう裁いておられるのかを聞きたかったのですが、
千人の参加者に同時に理解される返事は無い、と感じられたのでしょう。
「この問題は短時間には答えられない」と逃げ口上も適切でした。
無理な質問をしたのは、会場参加者にも考えてもらいたかったからで、
逃げることもまた大切であることを、改めて教えられた思いです。
 

写真は、中村哲さんの活動によって緑化した砂漠の様子で、
これでまた大勢の人々が、生きる喜びを味わえるようになったのです。