格差原理とマネー社会への疑問
先週見られなかった、「ハーバード白熱教室」の再放送、
第8回の「能力主義に正義はない?」を、深夜に見ました。
過去には、富の配分を巡る代表的な考え方の流れから、
まず自由主義市場原理を唱える、リバタリアンが紹介され、
政府の介入を最低限に抑えた最小国家の正当化が登場します。
次いで公正な機会均等を主張する、能力主義へと進み、
今度は、ある程度の格差を認める「格差原理」の考えですが、
これは現代多くの国々の、福祉理念の基礎になっているようです。
第8回の「能力主義に正義はない?」を、深夜に見ました。
過去には、富の配分を巡る代表的な考え方の流れから、
まず自由主義市場原理を唱える、リバタリアンが紹介され、
政府の介入を最低限に抑えた最小国家の正当化が登場します。
次いで公正な機会均等を主張する、能力主義へと進み、
今度は、ある程度の格差を認める「格差原理」の考えですが、
これは現代多くの国々の、福祉理念の基礎になっているようです。
サンデル教授によると、ジョン・ロールズは、
「生まれながらの才能は、努力の成果で得たわけではないから、
努力に報いる分配システムである能力主義は、不公平である」
と考えて、更なる富の平等な分配の在り方を考えます。
封建制度のような身分制度がなくても、経済条件などの違いで、
誰でも偶然の恣意的不平等からは逃れることが出来ない。
それなら格差は、否応なく必然的にあるものと認めた上で、
「最も恵まれない人の便益を図るときにのみ正義として許される」
と考えたのが「格差原理」と呼ばれるものでした。
この考え方に対して、学生からも疑問が出されますが、
整理すれば三種類の疑問・反論があることが紹介されます。
(1)インセンティブはどうなるのか?
(2)能力や努力が報われないのではないか?
(3)自己所有の絶対性が崩れるのではないか?
こうした疑問に答えながら、さらに深い疑問に近づいていく。
それは、格差を認めさせながら最下層の利益にもなるバランスで、
大きな報酬を得る人には大きな課税をして社会に還元する等、
必ずしも本人の努力だけとは言えない、社会要因を考慮することで、
社会的に是正することの正義を主張するものでした。
興味深いのは、成功に伴う道徳的要因と受益資格は別物と考え、
例えば宝くじ当選は、道徳的要因がなくても受益資格はあるとする。
つまり道徳的価値のない公正・正義を認めるのですが、
解説の小林教授によれば、サンデル教授自身は違う考えで、
公正・正義には、必ず道徳的価値を結びつけて考えるようです。
これは今後の話の楽しみとして、取っておけばいいのでしょうか。
さて今回、自分のブログでこの話題を取り上げたのは、
授業では出てこない、お金そのものの問題が気になったからです。
「最も恵まれない人の便益を図るときにのみ正義として許される」
と言うとき、この「最も恵まれない人」は誰を指すのか?
こうした便益がお金で換算され、お金を使って行われる場合、
経済のグローバル化と金融の自由化による世界通貨は、
最も恵まれない国々の、最下層の人の便益に使われるのか?
弱国からは搾取して、自然を取り返しがつかないまで破壊して、
その収益を強国の中だけで分かち合うのでは、正義と言えるのか?
テレビでは言わない疑問が、どうしても気になったのです。
誰かこの疑問に答えてくれるでしょうか?
写真はジョン・ロールズ