今度は雨乞いか?

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天候不順の寒さで、種下ろしも遅れた4月前半でしたが、
4月下旬の大型連休に合わせたかのように、天気は好転して、
そのまま雨の降らない、乾燥した日が続いています。
それでも今日明日は雨の予報だったので、それに合わせて、
苗の定植などをしてきたのですが、困ったことに今日も快晴!
仕方なく、車で15分の場所まで水やりに行ってきました。

雨の日に合わせての用事も、だいぶたまっているのですが、
自然農はお天気次第なので、天候に合わせた作業が必要です。
本当なら、そのために車で走っていてはいけないのですが、
なるべく矛盾を少なく生きるには、これもまたやむを得ない。
どこまでも人間の仕業なので、完璧には行くはずもなく、
「なるべく」に頼りながら、コツコツと生きるしかありません。

それにしてもこのお天気は、寒いのも困るけど暑くても困る、
人間のわがままとは言え、もっと穏やかに変化してほしいです。
この極端な天候激変そのものが、環境破壊によるものだとすれば、
自業自得であると共に、これもまた弱者いじめをもたらします。
経済拡大によって自然環境が破壊され、天候不順が激しくなって、
一部の強い人たちだけが、人工的に作られた快適環境で過ごし、
その他大勢は、自然と共に劣悪な環境を余儀なくされるのです。

今の社会では、だから負け組にならないように頑張って、
自分の力で快適環境を手に入れるよう、鼓舞されるわけです。
だけど考えてみれば、本来の自然環境を壊さないようにすれば、
一部の人ではなく、みんながその快適さを享受できるのです。
社会がそのように向かわない理由は、その指導者たちこそ、
利己的な欲得でのし上がってきた、破壊者たちだからでしょう。
政治、行政、マスコミに携わる人たちの良識が問われます。

とは言え、天候不順を彼らの所為にしても馬鹿にされるだけで、
実際にどんな時代にも、気候変動や天候不順は起きるので、
そうした場合の避難場所としては、科学技術も大切なのです。
だけど普段の暮らしにおいては、この豊かな自然の中で、
潮香や山の匂いを感じながら、風や陽射しと共に暮らしたい。
豊かな自然の一部として、気持ちよく暮らしたいと思うのです。

日本語には、自然界の現象や天候気候を表す言葉が豊富にあって、
僕らの教養とは、そうした語彙を正しく使い分けながら話をし、
日々の暮らしの喜びを、自然の中に見出して認め合うことでした。
日本人本来の感性とは、みみっちい民族意識などではなく、
もっとおおらかな、自然の営みを天道とした一体感だったのです。
あらゆる修練に「道」を求めるのも、この精神だと思います。

写真は高岡へ行く途中の風景で、高岡法科大学の近く、
大型連休で混雑する日に、誰もいない菜の花畑の風景です。