無料と無報酬
先日NHKで、様々な無料サービスが紹介されていました。
僕もいろいろ無料サービスは使っていますが、面白かったのは、
システムとしての無料サービスばかりではなく、人間として、
サービスされる人ばかりか、サービスする側も熱心になることです。
例えばシステムとしての無料サービスは、メールやMLやHPや、
その他ネット上には様々なサービスがあって、とても便利です。
諸外国との通話が無料のIP電話や、無料のゲームサイトなど、
以前からあるタイプの、一部ユーザーからの集金で成り立つものや、
無料電子カルテのような、あとで整理されたデータが売れるから、
サービス自体は無料で提供出来るものなども、出来ているようです。
そんな中で、サービスする側にもされる側にもお金が回らない、
まったくボランティアとも言えることに、熱中する人がいる。
これは特殊な人の話ではなく、例えば町で困っている人に出会うと、
ほとんどの人は無報酬のまま、その人を助けようとします。
あるいはWikipediaなどは、無報酬でも多くの人が記事を書き込む。
そもそもブログ等の記事でも、報酬を求めているわけではないのです。
考えてみれば、何かすれば報酬がもらえるなんてルールは、
人間の歴史から見れば、比較的最近に始まったことでしかなく、
それ以前は、人間として“なすべきこと”をやっていただけなのです。
まずは生き延びるために、家族の衣食住を賄うのが生活ですから、
家を造り、住み良くして、食材を手に入れ、料理をして、衣類を作る。
これを基に、幸せな生活を求めて努力しながら暮らしたわけです。
当時の人も必要に応じて、自分の出来る範囲で助け合ったはずで、
人が誰かのために何かするのは、それ自体が喜びだったからでしょう。
そうした人間の本性が、出来る範囲で無償の人助けをするのです。
僕がいつも考える、なるべくお金に頼らない暮らしというのも、
こうした人間性も無関係ではないし、食とエネルギーが自給出来れば、
無料と無報酬で、好きなだけ助け合える社会も夢ではないのです。
例えば貧富の格差や、弱者を助ける社会福祉のようなものを、
お金によって解決しようとする人たちがいますが、それは不可能で、
現在の有利子貨幣に頼れば頼るほど、貧富の格差は拡大します。
弱者救済を借金で成し遂げることは、自己矛盾で不可能なのです。
ベーシック・インカムなど、問題を複雑にして解決を困難にし、
何一つ解決せずに、既存の利権者を太らせていくでしょう。
そんな閉塞状態を破る一つの鍵が、自然農による自立だったわけで、
家族や小さな地域での、循環共生的な自給自立社会を作ることでした。
こうした仕事を収益抜きで本気になるには、金銭やりとりをしない、
働くことが、自分の幸せと直結していればいいことなのです。
さらに必要に応じて助け合う、人間的な信頼と喜びの価値観を解放し、
自由に人のために働ける環境を、整備してやればいいのです。
たったこんなことが何故できないかと言えば、理由は二つあります。
一つは、幻想の商品価値を信じ込ませた経済信仰の成果であり、
もう一つは、人は真実よりも脚色された物語が好きだと言うことです。
しかしながら、現代の消費拡大がすでに破綻寸前だとしたら・・・
僕もいろいろ無料サービスは使っていますが、面白かったのは、
システムとしての無料サービスばかりではなく、人間として、
サービスされる人ばかりか、サービスする側も熱心になることです。
例えばシステムとしての無料サービスは、メールやMLやHPや、
その他ネット上には様々なサービスがあって、とても便利です。
諸外国との通話が無料のIP電話や、無料のゲームサイトなど、
以前からあるタイプの、一部ユーザーからの集金で成り立つものや、
無料電子カルテのような、あとで整理されたデータが売れるから、
サービス自体は無料で提供出来るものなども、出来ているようです。
そんな中で、サービスする側にもされる側にもお金が回らない、
まったくボランティアとも言えることに、熱中する人がいる。
これは特殊な人の話ではなく、例えば町で困っている人に出会うと、
ほとんどの人は無報酬のまま、その人を助けようとします。
あるいはWikipediaなどは、無報酬でも多くの人が記事を書き込む。
そもそもブログ等の記事でも、報酬を求めているわけではないのです。
考えてみれば、何かすれば報酬がもらえるなんてルールは、
人間の歴史から見れば、比較的最近に始まったことでしかなく、
それ以前は、人間として“なすべきこと”をやっていただけなのです。
まずは生き延びるために、家族の衣食住を賄うのが生活ですから、
家を造り、住み良くして、食材を手に入れ、料理をして、衣類を作る。
これを基に、幸せな生活を求めて努力しながら暮らしたわけです。
当時の人も必要に応じて、自分の出来る範囲で助け合ったはずで、
人が誰かのために何かするのは、それ自体が喜びだったからでしょう。
そうした人間の本性が、出来る範囲で無償の人助けをするのです。
僕がいつも考える、なるべくお金に頼らない暮らしというのも、
こうした人間性も無関係ではないし、食とエネルギーが自給出来れば、
無料と無報酬で、好きなだけ助け合える社会も夢ではないのです。
例えば貧富の格差や、弱者を助ける社会福祉のようなものを、
お金によって解決しようとする人たちがいますが、それは不可能で、
現在の有利子貨幣に頼れば頼るほど、貧富の格差は拡大します。
弱者救済を借金で成し遂げることは、自己矛盾で不可能なのです。
ベーシック・インカムなど、問題を複雑にして解決を困難にし、
何一つ解決せずに、既存の利権者を太らせていくでしょう。
そんな閉塞状態を破る一つの鍵が、自然農による自立だったわけで、
家族や小さな地域での、循環共生的な自給自立社会を作ることでした。
こうした仕事を収益抜きで本気になるには、金銭やりとりをしない、
働くことが、自分の幸せと直結していればいいことなのです。
さらに必要に応じて助け合う、人間的な信頼と喜びの価値観を解放し、
自由に人のために働ける環境を、整備してやればいいのです。
たったこんなことが何故できないかと言えば、理由は二つあります。
一つは、幻想の商品価値を信じ込ませた経済信仰の成果であり、
もう一つは、人は真実よりも脚色された物語が好きだと言うことです。
しかしながら、現代の消費拡大がすでに破綻寸前だとしたら・・・