無限パッセージと物語性
このブログで議論するときも、他の様々な場においても、
なかなか理解されないキーワードに、「物語性」があります。
例えば、真実、真理、科学、歴史と言った概念を使うとき、
あたかも物語性とは相容れない、普遍性があるように思われて、
どんな科学も真実も、言葉として表現されるときは必然的に、
その言葉が背負っている物語性を帯びることが、理解されにくい。
だけど確かに、言葉が「他者に通じる言語」として意味をなすには、
その言語が負う文化体系的な価値観からは、抜け出せないのです。
言葉が意味を持って存在するための、必須条件だからです。
僕は以前に、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」を読んだとき、
最初に出てきて最後までキーワードだった“パッセージ”から、
こうした感覚を得て、その後自分なりに消化してきたつもりです。
このとき僕が理解したパッセージとは、あらゆる一瞬の一点において、
無限の方向や次元が同時に存在するという、果てしない感覚であり、
それが人間にとって理解されるには、スケールが必要だってこと。
どんな同じ現象も、スケール次第でどうにでも表現されてしまうから、
人が同じものを見て同じだとわかるには、共通の物差しが必要ってこと。
この物差しをどのようなものにするかが、文化でもあるでしょう。
物理科学が教えてくれた、こうした人間の限界と可能性を抜きには、
もはや文化も思想も、考えることも表現することも成り立たないのです。
と言っても、このことで対話が難しくなるわけではないのであって、
むしろ今まで話の通じなかった相手に対して、なぜ通じなかったのか、
何が理解できて、何がわかってもらえないのかが見えてくる話でもある。
あるいは、今まで解決方法が見いだせなかったような懸案に対して、
パッセージを変えて考える!って手法もありだと、教えてくれるのです。
長い歴史の中で、暗黙の文化的価値観として思いこんでいたものを、
違う価値観で見ることにより、別のパッセージに入り込むのです。
元々は、あらゆる次元において無限数のパッセージがあるのですから、
出口の見えない、繋がらない糸を繋ぐパッセージも必ずあります。
ただ問題は、見つけた糸口も現在のスケールに合わなければ意味がなく、
これをうまく繋げることは、人智に頼るしかないのだと思われます。
しかし悲しいかな、現代の日本の学問・研究の世界では、こうしたことは、
まったく振り向かれることもなく、最高学府を出た一時代の寵児さえ、
「お金を稼いで何が悪い」くらいの考えしかないのが、現実の社会です。
結局いつの時代も、一般的な教養というのは為政者の道具に過ぎず、
マスコミに乗せられて走れば、ろくな結末にならないのでしょう。
それでも、このゴミ山となった大量消費社会においても、価値あるもの、
優れた思考による書籍、それを生み出す人、受け入れて実践する人はいる。
膨大なゴミ山からでも、こうした光り輝く宝石を見出して磨き上げ、
自分のものとして、豊かな人生を目指すことは、やっぱり可能なのです。
その何が正しく何が間違っているかは、スケール次第でしかないと知れば、
正しさを主張し合って争うような、愚かな無駄は極力避けるようにして、
自分がもっともやりたい、一番喜びに満ちあふれることをすればいいのです。
それは人を喜ばせること、困っている人を助けることでしかないでしょう。
たったそれだけのことさえ、実現が難しいのも人間ではありますが・・・
リサ・ランドールの「ワープする宇宙」は、↓こちらから。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4140812397?ie=UTF8&tag=isobehon-22
僕のブログでの紹介は、↓こちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/isop18/57601677.html
なかなか理解されないキーワードに、「物語性」があります。
例えば、真実、真理、科学、歴史と言った概念を使うとき、
あたかも物語性とは相容れない、普遍性があるように思われて、
どんな科学も真実も、言葉として表現されるときは必然的に、
その言葉が背負っている物語性を帯びることが、理解されにくい。
だけど確かに、言葉が「他者に通じる言語」として意味をなすには、
その言語が負う文化体系的な価値観からは、抜け出せないのです。
言葉が意味を持って存在するための、必須条件だからです。
僕は以前に、リサ・ランドールの「ワープする宇宙」を読んだとき、
最初に出てきて最後までキーワードだった“パッセージ”から、
こうした感覚を得て、その後自分なりに消化してきたつもりです。
このとき僕が理解したパッセージとは、あらゆる一瞬の一点において、
無限の方向や次元が同時に存在するという、果てしない感覚であり、
それが人間にとって理解されるには、スケールが必要だってこと。
どんな同じ現象も、スケール次第でどうにでも表現されてしまうから、
人が同じものを見て同じだとわかるには、共通の物差しが必要ってこと。
この物差しをどのようなものにするかが、文化でもあるでしょう。
物理科学が教えてくれた、こうした人間の限界と可能性を抜きには、
もはや文化も思想も、考えることも表現することも成り立たないのです。
と言っても、このことで対話が難しくなるわけではないのであって、
むしろ今まで話の通じなかった相手に対して、なぜ通じなかったのか、
何が理解できて、何がわかってもらえないのかが見えてくる話でもある。
あるいは、今まで解決方法が見いだせなかったような懸案に対して、
パッセージを変えて考える!って手法もありだと、教えてくれるのです。
長い歴史の中で、暗黙の文化的価値観として思いこんでいたものを、
違う価値観で見ることにより、別のパッセージに入り込むのです。
元々は、あらゆる次元において無限数のパッセージがあるのですから、
出口の見えない、繋がらない糸を繋ぐパッセージも必ずあります。
ただ問題は、見つけた糸口も現在のスケールに合わなければ意味がなく、
これをうまく繋げることは、人智に頼るしかないのだと思われます。
しかし悲しいかな、現代の日本の学問・研究の世界では、こうしたことは、
まったく振り向かれることもなく、最高学府を出た一時代の寵児さえ、
「お金を稼いで何が悪い」くらいの考えしかないのが、現実の社会です。
結局いつの時代も、一般的な教養というのは為政者の道具に過ぎず、
マスコミに乗せられて走れば、ろくな結末にならないのでしょう。
それでも、このゴミ山となった大量消費社会においても、価値あるもの、
優れた思考による書籍、それを生み出す人、受け入れて実践する人はいる。
膨大なゴミ山からでも、こうした光り輝く宝石を見出して磨き上げ、
自分のものとして、豊かな人生を目指すことは、やっぱり可能なのです。
その何が正しく何が間違っているかは、スケール次第でしかないと知れば、
正しさを主張し合って争うような、愚かな無駄は極力避けるようにして、
自分がもっともやりたい、一番喜びに満ちあふれることをすればいいのです。
それは人を喜ばせること、困っている人を助けることでしかないでしょう。
たったそれだけのことさえ、実現が難しいのも人間ではありますが・・・
リサ・ランドールの「ワープする宇宙」は、↓こちらから。
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僕のブログでの紹介は、↓こちら。
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