「ドストエフスキーより愛をこめて」

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いつも太田さんの絡みが面白い、NHKのテレビ番組、
爆笑問題のニッポンの教養」ですが、昨夜は特に興味深く、
ドストエフスキーより愛をこめて」をやっていました。
最近ドストエフスキーがブームで、本が売れていると聞きますが、
僕も学生の頃に、「カラマーゾフの兄弟」を夢中で読みました。
今ではその詳細は、すっかり忘れてしまっていますが、
マルケスの「百年の孤独」と共に、僕にとって特別な作品です。

ゲストの亀山郁夫さんは、東京外国語大学の学長で、
2007年に「カラマーゾフの兄弟」で毎日出版文化賞特別賞を受賞、
翌年、ロシア最高の外国人文化勲章プーシキン賞を受賞されています。
そんな亀山さんは、昔から言われる「ロシアの大地」について、
自分の心を開くものとして、そこに救いを見出す話をされました。
このあたりは、よく聞く話なので、ふんふんと思って聞いていましたが、
太田さんがタルコフスキーの「惑星ソラリス」の話を持ち出すあたりから、
俄然面白くなって、夢中になって話を聞いていました。

惑星ソラリス」は、1972年のロシア映画ですが、
そこに描かれた未来の姿には、鉄腕アトムのような都市型でなく、
理性ある有機体としての“海のようなもの”が進化しています。
現実には僕らは、騒々しい交通機関と巨大ビル群による都市型文明を得て、
アトムのようなロボットさえ、現実味を帯びた世界に暮らしていますが、
これが幸せなのかと言えば、多くの人が疑問を持ち始めているのです。
若い人たちは、企業戦士となって高層ビルで働き詰めることを嫌い、
むしろ自然の中に戻って、静かな暮らしをしたいと望む人が増えている。

こうした“しあわせ”の思い描かれ方がどこから来るのか、
太田さんはそこに、ドストエフスキーが思い描いたロシアの大地と同じ、
自分の中にすでにある“イメージ”の大切さを語られたのです。
何をもって幸せの記憶とするかは、人によって違うのだとしても、
たとえば本来誰でも、子どもの頃に母親のもとで幸せだった時間があり、
その幸福感がある限り、孤独から救われることが出来るのだとする。
そこで亀山さんは、「母親の記憶もない、母親の愛情の記憶もないとしたら、
その人間はどこに行くことになりますか?」と問いかけるのです。

亀山さんはさらに踏み込んで、こうした繋がりを失った現代人の、
“黙過”とされるものを取り上げて、これが無差別殺人とか、
今までの人の心では計りきれない犯罪などの、原因ではないかと指摘される。
この失われた絆を、どのように修復することが可能なのかと問うのです。
すると太田さんは、文学や芸術作品など、表現者の役割はそこにあって、
ドストエフスキーにとっての「ロシアの大地」だって、救いは内側であり、
「自分を救うのは、自分の内側にある記憶でしかない」と言い切ります。
優れた文学や芸術作品は、見る者の内側に光を当てる!と言うことでしょう。

現実社会で、他者とコミュニケーションが出来なくなった人でさえ、
その人の内側に“よい思い出”さえあれば、かならず救われることが出来る。
気が付けばこれって、ドストエフスキーが言っていることでもあるのです。
めずらしく研究室ではなく、ロシア料理のお店で、食事をしながら、
アルコールに弱い太田さんが、ウオッカで酔いながら話をする雰囲気は、
古き良き時代のサロンを思わせる、懐かしい“よいもの”を思い出させます。
こんな幸福な、語り合う時間を、もっと増やして生きたいものですね!