「被爆者の声」

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伊藤明彦さんのDVDを見よう、とする会が開かれて、
プロジェクターをお貸しする関係で、同席させていただきました。
とは言うものの、伊藤明彦さんのことは何も知らなかったので、
ただプロジェクターの管理と、話を聞くつもりで行ったのです。
ところが、行ってみて、こんな凄い人がいたと知って驚きました。

彼は東京生まれで長崎市に育ち、1945年8月9日には、
8歳で田舎に疎開していたので、直接被爆は免れたようですが、
8月下旬には長崎に戻った、入市被爆者になる人です。
早稲田大学の文学部を卒業後に、長崎放送の記者になって、
入社8年後の1968年、ラジオ番組「被爆を語る」を担当。
しかし6ヶ月間の担当の後に、番組を降ろされて支局へ転勤となり、
彼は翌年放送局を退職して、自力でこの作業を続けたのです。

このあたりの詳細は、ジャーナリストの岩垂弘さんが、
リベラル21サイトに、『神から遣わされた「現代の語り部」』
として記事にされているので、そちらをご覧ください。
http://lib21.blog96.fc2.com/?no=690

凄いのは、その後で、彼は今年の3月3日に肺炎で亡くなるまで、
40年間にわたり、この仕事を天職として全うしたことです。
その偉業の集大成は、14本のテープ、9巻のCDにまとめられ、
日本中の図書館や、平和活動団体などに寄贈されているのです。
これらの情報は、「被爆者の声」サイトから見られます。
http://www.geocities.jp/s20hibaku/index.html

そして今回、僕らは伊藤明彦さんの講演録を含むDVD、
「情報の力で核兵器の再使用を阻止する」を見せていただき、
これを元に、参加者で話し合いの時間を持ったのです。
彼の地道に積み重ねられた偉業は、2006年7月に、
長崎放送の番組「広島、長崎を伝えたい」として放映されます。
そしてこれが、「地方の時代」映像祭で『特別賞』を受賞、
翌年には、放送人グランプリ2007特別賞を受賞して、
さらに2008年には、「吉川英治文化賞」を受賞されたのです。

当然と言えば当然の受賞ですが、何が彼を40年間も動かしたのか?
彼はDVDの中で、ゴーギャンの書き残した言葉を言います。
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
この大きな視点に立ったとき、彼は人類史全体を視野に見据え、
広島・長崎が、かつて火を使い始めたときに匹敵する転換点と考えた。
この重大な局面を記録する仕事に、一生を捧げたと言えるでしょう。

彼は昨年、Yahoo!にもブログを開設して、いくつかの書庫を作り、
たくさんの記事を書き残しているのですが、その中でも僕は、
「ジャーナリズム」のコーナーにある記事に、心が引かれます。
ちょうど集まった僕らが話し合ったのは、マスコミ報道の危うさで、
僕らは今回の政権交代にまつわる、様々な現象の情報にしても、
偏った情報しか知らされていないことに対する、苛立たしさでした。
ジャーナリズムという懐かしい言葉は、もう死語なのでしょうか。

最後に、彼のブログサイトを紹介して、記事を終わらせますが、
僕自身も、これからもう少し、彼の偉業にふれたいと思っています。
http://blogs.yahoo.co.jp/ito8689

多様な価値観と視点のある現在、マスコミだけを情報源とする人は、
すでに新しいタイプの“無知”と言わざるを得ないのかも知れません。