寒くなりました
昨日は晴れていたので、サンタの森へ行ったら、
スロープを一面に、蕎麦の花が咲き始めていました。
今週末は自然農講座の日、ちょうど満開になるでしょう!
講座用の自然農園では、豆類の生育はいいのですが、
モチキビはあまりうまくいかず、タカキビはまあまあ、
エゴマとカボチャは、ほとんどうまく育ちませんでした。
自然農の土になるには、何年かは掛かるでしょうし、
来年は、芋類なんかも挑戦してみたいですね。
そのまま頼成の自然農園に移動して、畑の手入れをして、
家に帰って、ゆっくりとハーブティーを飲んでいると、
イチローが、大リーグで108年ぶりの記録更新ニュース。
さらに、日本政治の120年目にして事務次官会議が終わり、
官僚政治を脱却するとした、民主党政治の真価が問われる。
100年に一度の経済不況なんて言い回しもあって、
最近僕らの周りで、100年は身近な単位になっています。
そうそう、今年は100歳を越えた人が4万人を越えたとも。
100年は、人間にとって長いけど、生きられる年月で、
これを単位に人生を考えると、千年の歴史もなんだかわかる。
若いときには一つの知識でしかなかった、歴史ってものが、
年齢を重ねると、身近に感じられるのは、そのせいでしょうか。
物心が付き、自分で様々なことを感じ、考えられるようになって、
自らの想いを周囲にぶつけながら、やがて社会にぶつけながら、
少しずつ自分がその構成員になっていくのでしょうが、
若い人にとって現代は、とても困難な時代になりました。
何が困難かと言えば、社会は科学技術も含めて複雑高度になり、
人間の善きものである純粋な精神や想いでは、簡単に変わらない。
それどころか、この複雑高度さに疑問を持てば、落ちこぼれて、
通常の社会生活さえが困難になる、恐怖心が先立つのです。
複雑高度になった構築物としての社会で、一度落ちこぼれると、
立ち直るさえ困難に見えるのは、誰にも身に覚えのあることです。
自らの良心に従って生きるなど、不可能にさえ思えるでしょう。
それでもありがたいことに、僕らはみんな生きて死ぬ。
生きている限りは自由でしかない人間ですから、何でもできる。
自分が動ける間に実行している生き方によって実在が生まれ、
その実在を積み重ねることだけが、その人の真実となるのです。
生まれてきた時代が、たとえば戦争の時代だったとしても、
新しい時代は、平和を望む人たちによって創られていったように、
今の時代が大量消費の時代だとしても、これから先の時代は、
自然を破壊しない、循環型社会を望む人たちによって創られる、
そんな希望は、決して失われることのない真実なのです。
この世界に、奇跡的に産まれてきた“自分とは何か”を求め、
自らの五感や五体に頼って、自らが判断した最高の人生を生きる!
こうした根元的な価値を忘れて、企業マスコミの価値観を信じ、
ひたすら消費拡大をもくろむ、テレビに動かされて生きれば、
せっかくの奇跡を台無しにして、人生を虚しくしてしまうでしょう。
悲しいことに、こんな根元的なことを誰も教えなくなったから、
社会の趨勢というものが、多くの人から希望を奪っているのです。
これを克服する第一歩は、“知る”ことでしかありません。
あなたは、
自分が生きようとする世界を、
ちゃんと知っていますか?
スロープを一面に、蕎麦の花が咲き始めていました。
今週末は自然農講座の日、ちょうど満開になるでしょう!
講座用の自然農園では、豆類の生育はいいのですが、
モチキビはあまりうまくいかず、タカキビはまあまあ、
エゴマとカボチャは、ほとんどうまく育ちませんでした。
自然農の土になるには、何年かは掛かるでしょうし、
来年は、芋類なんかも挑戦してみたいですね。
そのまま頼成の自然農園に移動して、畑の手入れをして、
家に帰って、ゆっくりとハーブティーを飲んでいると、
イチローが、大リーグで108年ぶりの記録更新ニュース。
さらに、日本政治の120年目にして事務次官会議が終わり、
官僚政治を脱却するとした、民主党政治の真価が問われる。
100年に一度の経済不況なんて言い回しもあって、
最近僕らの周りで、100年は身近な単位になっています。
そうそう、今年は100歳を越えた人が4万人を越えたとも。
100年は、人間にとって長いけど、生きられる年月で、
これを単位に人生を考えると、千年の歴史もなんだかわかる。
若いときには一つの知識でしかなかった、歴史ってものが、
年齢を重ねると、身近に感じられるのは、そのせいでしょうか。
物心が付き、自分で様々なことを感じ、考えられるようになって、
自らの想いを周囲にぶつけながら、やがて社会にぶつけながら、
少しずつ自分がその構成員になっていくのでしょうが、
若い人にとって現代は、とても困難な時代になりました。
何が困難かと言えば、社会は科学技術も含めて複雑高度になり、
人間の善きものである純粋な精神や想いでは、簡単に変わらない。
それどころか、この複雑高度さに疑問を持てば、落ちこぼれて、
通常の社会生活さえが困難になる、恐怖心が先立つのです。
複雑高度になった構築物としての社会で、一度落ちこぼれると、
立ち直るさえ困難に見えるのは、誰にも身に覚えのあることです。
自らの良心に従って生きるなど、不可能にさえ思えるでしょう。
それでもありがたいことに、僕らはみんな生きて死ぬ。
生きている限りは自由でしかない人間ですから、何でもできる。
自分が動ける間に実行している生き方によって実在が生まれ、
その実在を積み重ねることだけが、その人の真実となるのです。
生まれてきた時代が、たとえば戦争の時代だったとしても、
新しい時代は、平和を望む人たちによって創られていったように、
今の時代が大量消費の時代だとしても、これから先の時代は、
自然を破壊しない、循環型社会を望む人たちによって創られる、
そんな希望は、決して失われることのない真実なのです。
この世界に、奇跡的に産まれてきた“自分とは何か”を求め、
自らの五感や五体に頼って、自らが判断した最高の人生を生きる!
こうした根元的な価値を忘れて、企業マスコミの価値観を信じ、
ひたすら消費拡大をもくろむ、テレビに動かされて生きれば、
せっかくの奇跡を台無しにして、人生を虚しくしてしまうでしょう。
悲しいことに、こんな根元的なことを誰も教えなくなったから、
社会の趨勢というものが、多くの人から希望を奪っているのです。
これを克服する第一歩は、“知る”ことでしかありません。
あなたは、
自分が生きようとする世界を、
ちゃんと知っていますか?