政権交代と源氏物語
マスコミでは、新しい鳩山政権の誕生で大騒ぎですが、
ノリピー覚醒剤事件と同じ乗りでしかないのが、気になります。
それでも新人議員のことを、小沢チルドレンと言わなくなったのは、
何でも囃し立てればいいって姿勢を、反省したのでしょうか。
そんな中で、鳩山新政権のあえて困難な船出への挑戦に、
やっぱり新しい日本政治の始まりを、期待してしまうのです。
新しい友愛政治がどんな方向へ向かうか、これからが楽しみです。
さて、自民党政治の手法であった官僚政治の、ルーツはと言えば、
古くは聖徳太子が始めた、律令制度に遡るのだと思いますが、
その繁栄を極めたのは、平安時代だったかもしれません。
そして当時の官僚官位の絶大な権力や、その威光に関しては、
源氏物語などを読めば、実に詳しくよくわかります。
民主主義とは縁遠いこの制度は、中央集権を維持するのに適し、
日本で政治とは、官僚主導の行政に他なりませんでした。
この千年以上にわたる政治意識が、ようやくこれでは駄目だと、
多くの市民によって変化を求めたのですから、政権も変わる。
しかしこの後、市民は自分たちが何を選択したのかを知るときに、
その自らの責任を担えるほどに、民主主義であり得るのかどうか?
すなわち政権の力量と共に、市民の意識が問われます。
この問いに、市民はどこまで答えられるかが問題でしょう。
漠然とした期待だけでは、官僚の反撃に流される可能性がある。
今日は朝から久しぶりに、源氏物語の学習会に参加して、
「乙女」の段で、自らの役職に権勢を振るった人たちを読むと、
あらためてこの官僚政治こそ、自民党政治だったんだなとわかる。
また一方で、それではこの官僚政治を脱却するだけの意識が、
市民が主体となって政治を行おうとする意識が、どれだけあるか?
楽観できない現状を、認識せずにはいられないのです。
いまや問題は、政権そのものと共に、市民の側にもあるのです。
古より争いごとを好まない、日本神道の伝統を基にして、
様々な信条や制度、宗教や主義がこの国の体を作ってきましたが、
この源氏物語においても、現代においても、変わらないものもある。
それこそ“和国”の真骨頂であるところの、自然体であります。
同じ六条院に居を隣り合わせることになった、紫上に対して、
秋好中宮は硯箱の蓋に、一首送ります。
「心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ」
これに対して紫上は、返歌をします。
「風に散る紅葉はかるし春の色を岩根の松にかけてこそ見め」
これを知った源氏は、争うことそのものを咎めるのではなく、
紅葉の季節である秋に、紅葉を悪く言うのは良くないといさめ、
春になってから、花を題材に変化するように注意するのです。
自然と和すことで、争いごとを自然に託してしまう知恵でしょう。
新しい時代には、どんな自然との調和が可能なのか?
新しい人たちによる、自然に根ざした知恵の総和が求められ、
これが日本型の民主主義の道を、切り開くと思われるのです。
自然こそが、万人に平等の喜びと、生きる命の基だからです。
ノリピー覚醒剤事件と同じ乗りでしかないのが、気になります。
それでも新人議員のことを、小沢チルドレンと言わなくなったのは、
何でも囃し立てればいいって姿勢を、反省したのでしょうか。
そんな中で、鳩山新政権のあえて困難な船出への挑戦に、
やっぱり新しい日本政治の始まりを、期待してしまうのです。
新しい友愛政治がどんな方向へ向かうか、これからが楽しみです。
さて、自民党政治の手法であった官僚政治の、ルーツはと言えば、
古くは聖徳太子が始めた、律令制度に遡るのだと思いますが、
その繁栄を極めたのは、平安時代だったかもしれません。
そして当時の官僚官位の絶大な権力や、その威光に関しては、
源氏物語などを読めば、実に詳しくよくわかります。
民主主義とは縁遠いこの制度は、中央集権を維持するのに適し、
日本で政治とは、官僚主導の行政に他なりませんでした。
この千年以上にわたる政治意識が、ようやくこれでは駄目だと、
多くの市民によって変化を求めたのですから、政権も変わる。
しかしこの後、市民は自分たちが何を選択したのかを知るときに、
その自らの責任を担えるほどに、民主主義であり得るのかどうか?
すなわち政権の力量と共に、市民の意識が問われます。
この問いに、市民はどこまで答えられるかが問題でしょう。
漠然とした期待だけでは、官僚の反撃に流される可能性がある。
今日は朝から久しぶりに、源氏物語の学習会に参加して、
「乙女」の段で、自らの役職に権勢を振るった人たちを読むと、
あらためてこの官僚政治こそ、自民党政治だったんだなとわかる。
また一方で、それではこの官僚政治を脱却するだけの意識が、
市民が主体となって政治を行おうとする意識が、どれだけあるか?
楽観できない現状を、認識せずにはいられないのです。
いまや問題は、政権そのものと共に、市民の側にもあるのです。
古より争いごとを好まない、日本神道の伝統を基にして、
様々な信条や制度、宗教や主義がこの国の体を作ってきましたが、
この源氏物語においても、現代においても、変わらないものもある。
それこそ“和国”の真骨頂であるところの、自然体であります。
同じ六条院に居を隣り合わせることになった、紫上に対して、
秋好中宮は硯箱の蓋に、一首送ります。
「心から春待つ園はわが宿の紅葉を風のつてにだに見よ」
これに対して紫上は、返歌をします。
「風に散る紅葉はかるし春の色を岩根の松にかけてこそ見め」
これを知った源氏は、争うことそのものを咎めるのではなく、
紅葉の季節である秋に、紅葉を悪く言うのは良くないといさめ、
春になってから、花を題材に変化するように注意するのです。
自然と和すことで、争いごとを自然に託してしまう知恵でしょう。
新しい時代には、どんな自然との調和が可能なのか?
新しい人たちによる、自然に根ざした知恵の総和が求められ、
これが日本型の民主主義の道を、切り開くと思われるのです。
自然こそが、万人に平等の喜びと、生きる命の基だからです。