失われた静寂

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昨日八尾で行われた、自然農の勉強会に参加したら、
「静寂(しじま)」についての学習、意見交換がありました。
命の世界をめぐる様々な学習の中でも、静寂は少し独特です。
抽象的な意味は別として、日本では失われたものですから。

この世界の、あらゆるものの根源としての音はオームですが、
オームは静寂がないと、感知し得ないものかもしれません。
本当の色も、香りも、姿形も、静寂がないと存在し得ない。
そこのところを、川口さんは次のように表現されます。

「静寂があるゆえに、声が出てみなさんにはっきりと届きます。
 あるいは、僕が手を上げるのも、何もない空間のところでしょう。
 静寂があるゆえにこの行動ができ、命の営みができます。いのちの
 営みをすることのできる舞台が、静寂であり空間です。静寂は、
 色なし、音なし、香りなし、姿形なし。一切音を発せず、巡らず、
 往かず、還らず、語らず黙してひたすら・・・です。」

現代の日本で、このような静寂を感じることは難しくなりましたが、
僕がまだ子どもの頃には、夜の静寂というものが、本当にありました。
家の中にまだ冷蔵庫のような、常時唸り音を出す家電製品はなくて、
わずかな電灯などを消せば、家の中は音するものが何もなくなります。
夏の夜には開け放った窓の遠くから、町中のわずかな音が届いて、
さらに耳を澄ませていると、遙か遠くから機関車のポーが聞こえた。

そうした静寂に身を置いていると、世界と自分が一体になって、
自分が世界であり、世界は自分と通じ合っていると感じたものです。
だけど現代では、家の中には常時唸り続ける家電製品があるし、
それを消しても、町中の動力のすべてを消すことはできませんからね。
電気のない八尾の石黒家へ行ったときでも、山の静寂が精一杯で、
その先の静寂は、どんな田舎であろうと動力の唸りがあるのです。

今では沖縄の離島でさえ、電気のない生活は考えられないようですが、
30年ほど前に訪問した新城島のパナリ牧場では、自家発電だけで、
この発電機が夜の10時に止められると、島は一気に静寂に包まれる。
すると消灯時間後の小さな島では、やがて不思議な別世界が広がって、
僕らは宿を抜け出し、浜へ出て宇宙と向き合い、釣り糸を投げるのです。
その釣りでさえ、魚を釣ると言うよりは、海中世界との交信です。

五感は止まることなく宇宙を巡り、海中を探り、存在に向き合う。
この壮大なオデッセイと一体になって、自らの静寂を感じるのです。
受け皿、容器としての己の存在が、静寂な世界と一体になるとき、
今いのちあることの喜びが、深い歓喜となって押し寄せます。

僕らは何を得て、何を失ったのか? そして何が望みなのか?
この静寂を思い出して、もう一度考えてみてもいい時期でしょう。
同じ時を生きる、より多くの人の、より豊かな幸せのために!