名誉ある生死

昨夜NHKの「クローズアップ現代」を見ていたら、
ALSの進行で、自分の意思表示ができなくなった時は、
「人工呼吸器を取って、名誉ある撤退をさせて欲しい!」
と主張している患者の話を取り上げていました。
今はまだ頬の筋肉や視力で、意思表示ができるけど、
それができなくなったら、そのまま生き続けるのは苦痛だから、
人工呼吸器を取ることによって死なせて欲しいと言うのです。

病院では倫理委員会を開いて、慎重に検討を重ねた結果、
患者本人の意思は理解できるので、認める結論になりました。
ところが病院側では、現在の法律では自殺幇助になるので、
外せば死ぬとわかっている人工呼吸器は、外せない!と言います。
同じ病気の、その他の人たちの意見も分かれていて、
意思表示ができないまま生きていたくない!とする人は多いものの、
一旦外すことが認められてしまえば、暗黙に意思表示が強要されて、
本当は外して欲しくない人も、遠慮して言えなくなるとの意見もある。

僕の母もALSで亡くなっているのですが、彼女の場合は、
最初から本人の意思で、人工呼吸器などはつけずに治療していました。
治療と言っても、この病気は有効な治療方法はありませんので、
一通りいくつかの病院で検査、入院をくり返したあとは、
少しでも生まれ育った家で暮らしたいとの希望で、自宅療養にします。
そうなる前にも、母は一人暮らしでしたので、兄弟三人で話しあい、
当時三人が暮らしていた東京へ来ないかと誘ってもみましたが、
今さら知らない土地へ行くよりも、自分の家にいたいとの希望でした。

この病気は、全身の神経が、末端から徐々に働かなくなっていき、
やがては、話すことも呼吸することも目を開くこともできなくなって、
自然状態であれば、この時点で生き続けることができなくなります。
それが現代医学では、生命維持技術が高度に発達しましたので、
人工呼吸器や様々な介護機器で、意思表示できなくなっても生き続ける。
それに対して患者本人が、意思表示できない世界で生き続けるのは、
暗闇で果てしなく耐えているだけだから、死なせて欲しいというのです。
彼はこれを、「名誉ある死を認めて欲しい」と表現していました。

さて、仏教用語には「無量寿」という言葉があります。
人はここにこうして生まれてきたことが、限りない奇蹟の結果であって、
これ以上の喜びはないのだから、この命は大切にしなければならない。
そんな意味だと思いますが、人はただ生きていればいい!と思うのは難しく、
欲望としても向上心としても、少しでも自分の意に添うように生きたい。
そう思う気持ちが強いので、なかなか何でもいいとは思えません。
例えば仕事なども、いかに失業しようと、意に添わない仕事はしたくない!
と思う人は多いので、求人の数だけでは如何ともしがたいものがあります。

寒い冬にホームレスの生活をする人を見ていると、多くの人たちは、
そこまで辛い思いをするなら、何でもいいから仕事をすればいいと思う。
たしかに失業者の中には、仕事の種類は選ばない人たちもいるのです。
だけど中には、たとえ路上生活をしようとも、イヤな仕事はしたくない!
と思っているうちに、命懸けのホームレスになった人もいるでしょう。
人は、ただ生きていればいいと思うことは難しく、何かを求める。
それをこのALS患者は、名誉と呼び、名誉ある撤退を望みました。
名誉ある生を望んだからこそ、名誉ある死を望んだのでしょう。

人はその死に方によって、生き方を示すのだとも受け取れます。
僕の母は亡くなる一週間前まで、不自由な体のまま自然に暮らし続け、
最後は倒れて自力で立ち上がれず、収容されて一週間で亡くなりました。
亡くなる少し前に、最後のお見舞いに行った時の母は、小さく縮んでいて、
何か欲しいものがあるかと聞いたら、「抹茶アイスと豆大福」と言いました。
豆大福は手に入りませんでしたが、抹茶アイスは手に入れることができて、
母はそれを嬉しそうに何口か食べて、それが最後の会話になりました。
何日か後、母は担当医にお礼を言ってから、静かに息を引き取りました。

死を目前にしても、誇りを持って生きていたいと思う人は多いでしょう。
無量寿と言えども、ただ生き延びていればいいというものでもないのです。
人工呼吸器を外すことを認めると、患者に暗黙の強要が生じるなら、
そうならないよう工夫をすればいいので、意志尊重を否定してはいけない。
路上生活をしても、意に添わない仕事を拒否する人にだって名誉はある。
少なくとも、未来に多大な負荷を背負わせる産業を拡大させる人より、
命を賭けても、意に添わない生き方はしない人を、否定したくないのです。