観世音人
生まれ育った門前町である、井波というところは、
周辺地域も含めて、かなり歴史の古い地域のようです。
今から1250年前の天平宝字3年(759年)に作られた、
井波を含むこの地方の麻布製地図が、正倉院に保管されており、
その前後には、米や墾田を東大寺に寄進した記録もある。
平安初期のものと思われる屋敷跡が、高瀬遺跡としてあるほか、
さらに古い、砺波平野周辺の山麓高台に連なる遺跡からは、
縄文時代の土器などが、現在でも発掘され続けているのです。
すなわち、庄川と小矢部川に挟まれた砺波平野周辺の高台は、
肥沃な川の堆積平野で、安定的な稲作による収穫を得る以前から、
この国の文明発祥期を担ってきた、人の脈絡があると言うことです。
日本の多くの遺跡がそうであるように、砺波周辺地域でも、
大きな川は暴れ川であるからこそ、土地を肥沃にしてきたので、
催事を司るような場所は、必ず高台の安全な場所にあります。
あるいは、長年の川氾濫の経験から、安全な場所が選ばれている。
例えば閑乗寺高原のような、平地を見下ろす見晴らしのいい場所から、
この地域の文化、そしてこの国の価値観が育っていったのでしょう。
そんなこともあって、田舎の寺とは思えない壮大な瑞泉寺の門前で、
この町の歴史物を知ることは、日本とは何かを知ることにもなる。
と言うわけで、町の観光案内ボランティアグループが主催する、
井波の町を知る学習会!みたいなものに、参加してみました。
今回は、だるま寺の住職によるお話でしたが、やっぱり面白い。
このお寺、正式な名称は別にあるのですが、だるま寺として知られ、
不思議なことに、檀家もないのに、ずっと大切に守られている。
井波には過去に4度の大火があって、このお寺も全焼しており、
そのまま廃寺になってもおかしくなかったのに、守られてきている。
どうやらそこには、形骸化した檀家とは違う信仰心があるようで、
だるま寺には、この地域一帯の浄土真宗とは違う、密教の気配がある。
現代のように医学や諸科学が発達した時代でさえ、命のことは、
依然としてわからないことが多くて、神頼みをする人は大勢います。
まして病気になれば加持祈祷くらいしか、頼るもののなかった時代に、
具体的に人を治療するとまで言われた密教ですから、慕われていた。
それもまったくデタラメであれば、信仰心にはならなかったでしょうに、
多くの人が信仰した理由は何か?、これが実に興味深いのです。
遠い昔から、この寺に来て病から救われた人は多かったようで、
それはどこの寺の門徒であるなしにかかわらず、信じられてきました。
だからこそ、余所から来た遊女などは進んでこの寺に寄進している。
実は僕自身、子どもの頃にいくつか不思議な体験をしてきており、
沖縄への旅では、人の病気を治す不思議な坊さんに出逢っています。
僕らは既成の知識で、世界を都合よく歪曲して見る習慣がありますが、
そんな思い込みの少なかった昔の人は、もっと素直に世界を観たはずです。
そのとき感じ取られた神仏とは何だったのか、考えてみる必要がある。
例えば仏教用語は、哲学的思考の宝庫のようなものですが、その中に、
観世音菩薩と呼ばれるものがあって、以前から気になっていました。
菩薩が人を救うなら、観世音とはいったい何か?気になっていたのです。
それがだるま寺の住職の話を聞いているうちに、不意に腑に落ちました。
この「音」とは、オームのようなもので、この世のオームを感じ取るとき、
そこには、ある種、奇蹟と共に、どうしようもない存在の悲哀がある。
菩薩はただそれを知るがゆえに、そうした存在人に寄り添うのです。
そうであれば、ただ凡人と言えども、観音することはできるのであって、
世界平和も環境保護も、こうした寄り添う気持ちと無縁ではないでしょう。
現代の政治、教育、マスコミ情報は、こうした人間の根元的な姿を、
あまりにも疎かにして、大切なものを忘れているような気がします。
写真は、瑞泉寺の太子堂です。
周辺地域も含めて、かなり歴史の古い地域のようです。
今から1250年前の天平宝字3年(759年)に作られた、
井波を含むこの地方の麻布製地図が、正倉院に保管されており、
その前後には、米や墾田を東大寺に寄進した記録もある。
平安初期のものと思われる屋敷跡が、高瀬遺跡としてあるほか、
さらに古い、砺波平野周辺の山麓高台に連なる遺跡からは、
縄文時代の土器などが、現在でも発掘され続けているのです。
すなわち、庄川と小矢部川に挟まれた砺波平野周辺の高台は、
肥沃な川の堆積平野で、安定的な稲作による収穫を得る以前から、
この国の文明発祥期を担ってきた、人の脈絡があると言うことです。
日本の多くの遺跡がそうであるように、砺波周辺地域でも、
大きな川は暴れ川であるからこそ、土地を肥沃にしてきたので、
催事を司るような場所は、必ず高台の安全な場所にあります。
あるいは、長年の川氾濫の経験から、安全な場所が選ばれている。
例えば閑乗寺高原のような、平地を見下ろす見晴らしのいい場所から、
この地域の文化、そしてこの国の価値観が育っていったのでしょう。
そんなこともあって、田舎の寺とは思えない壮大な瑞泉寺の門前で、
この町の歴史物を知ることは、日本とは何かを知ることにもなる。
と言うわけで、町の観光案内ボランティアグループが主催する、
井波の町を知る学習会!みたいなものに、参加してみました。
今回は、だるま寺の住職によるお話でしたが、やっぱり面白い。
このお寺、正式な名称は別にあるのですが、だるま寺として知られ、
不思議なことに、檀家もないのに、ずっと大切に守られている。
井波には過去に4度の大火があって、このお寺も全焼しており、
そのまま廃寺になってもおかしくなかったのに、守られてきている。
どうやらそこには、形骸化した檀家とは違う信仰心があるようで、
だるま寺には、この地域一帯の浄土真宗とは違う、密教の気配がある。
現代のように医学や諸科学が発達した時代でさえ、命のことは、
依然としてわからないことが多くて、神頼みをする人は大勢います。
まして病気になれば加持祈祷くらいしか、頼るもののなかった時代に、
具体的に人を治療するとまで言われた密教ですから、慕われていた。
それもまったくデタラメであれば、信仰心にはならなかったでしょうに、
多くの人が信仰した理由は何か?、これが実に興味深いのです。
遠い昔から、この寺に来て病から救われた人は多かったようで、
それはどこの寺の門徒であるなしにかかわらず、信じられてきました。
だからこそ、余所から来た遊女などは進んでこの寺に寄進している。
実は僕自身、子どもの頃にいくつか不思議な体験をしてきており、
沖縄への旅では、人の病気を治す不思議な坊さんに出逢っています。
僕らは既成の知識で、世界を都合よく歪曲して見る習慣がありますが、
そんな思い込みの少なかった昔の人は、もっと素直に世界を観たはずです。
そのとき感じ取られた神仏とは何だったのか、考えてみる必要がある。
例えば仏教用語は、哲学的思考の宝庫のようなものですが、その中に、
観世音菩薩と呼ばれるものがあって、以前から気になっていました。
菩薩が人を救うなら、観世音とはいったい何か?気になっていたのです。
それがだるま寺の住職の話を聞いているうちに、不意に腑に落ちました。
この「音」とは、オームのようなもので、この世のオームを感じ取るとき、
そこには、ある種、奇蹟と共に、どうしようもない存在の悲哀がある。
菩薩はただそれを知るがゆえに、そうした存在人に寄り添うのです。
そうであれば、ただ凡人と言えども、観音することはできるのであって、
世界平和も環境保護も、こうした寄り添う気持ちと無縁ではないでしょう。
現代の政治、教育、マスコミ情報は、こうした人間の根元的な姿を、
あまりにも疎かにして、大切なものを忘れているような気がします。
写真は、瑞泉寺の太子堂です。