懐の神刀

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正しいことが相手に伝わらないとき、どうすればいいか?
例えば「農」において、僕らは化学肥料や除草剤を否定して、
それどころか、耕さない方が理に叶っていると考えますが、
一般的には、耕して肥料をやって除草するのがいいとされる。
この場合、言っても聞く耳を持たない相手であれば、
どうにも言葉の通じないことですから、何も言いません。

ある程度理解してくれる相手でも、厳しく指摘した場合に、
その人は傷ついて、元気を無くしてしまうようであれば、
いかに自分が正しくても、相手を切って捨ててはいけない。
相手を批判して切ることは、その覚悟がある人ならいいけど、
覚悟のない相手を切っていけない、との教えがあります。
それが、先日ブログ記事に書いた川口さんの言葉です。

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真実は多くの人を切ることのできる神刀だけど、切ったらいけない!
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その意味として、
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時空を超えた真実はなく、真実は時空と共にあるのだから、
真実を知るとは、多様な時空や多様な種との共生を知ることで、
だからこそ、真実で他者を切ることは矛盾でしかないのです。
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と僕は書きました。

さて今回は、もう少し違った角度からも見てみました。
日本には古来から、「神刀」と言われるものがあります。
これは多くの場合、お守り刀としての懐剣です。
懐剣は自らを助けるために、様々なものを切る刀ですが、
敵を切り倒すためのものではないのが、神刀なのです。
これは単なる偶然なのかどうか?と考えてみました。

懐剣とは言え、一流の鍛冶によって鍛えられた刀は、
鞘を抜いて振り下ろせば、何だってきれるかも知れない。
だけどこの刀は、間違った人を切るために持つのではなく、
ただ我が身に降りかかる災難を切るためだけに使う、
さらには、滅多に使えないように懐や社に収まっている。
実際には何も切らず、ただその存在によって戒める、
その「戒める何か」の存在をあらしめているものです。

さてそれでは、僕らにとっての神刀とは何か?と考えて、
それが「答えを生きること」だろうとわかったのです。
生き方としての自然農を実践すれば、世界から戦争を無くし、
環境問題を押さえて、自由平等な社会も可能かも知れない。
お金に振り回されずに、安心して自分を生きることができて、
持って生まれた自分のいのちを、存分に発揮して生きられる!

だけど、そうわかっていても、それ以外の価値観を信じて、
自分の生活に安定と幸せを得ている人を、切ってはいけない。
神刀は何でも切れるけど、なぜ何でも切れるかと言えば、
絶対的幸を求める道筋にあって、そこから何でも切れるのです。
人を不幸せにする神刀は、矛盾しており、あり得ないのです。
これは日本古来からの神の在りようでもあるでしょうね。
日本の神々には、堕天使や悪魔の類はいないのです。

神刀を使って人を切ったら最後、堕天使になるのです。