過剰の弊害
僕が学生の頃からカリスマ的で、
今も多くのファンを持つ評論家に、
吉本隆明と言う人がいます。
よしもとばななさんのお父さんです。
もう80歳を超えている人ですが、
去年の夏に講演会があったようで、
昨夜はその様子がテレビで流されました。
僕はたまたま、その最後の方を少し見ました。
肉体的には、老齢を隠しようもない、
痩せこけた顔を上に向けて、熱心に話す、
その内容はふくよかで、つい聴き入ります。
話されていたのは、芸術の価値について。
その後すぐに、編集後記がありまして、
糸井重里さんが、吉本宅をおじゃまされ、
無価値の芸術の価値を問いただされました。
これは講演の締めくくりに、話されたことです。
おおざっぱに言って、芸術には価値がない!
この価値とは、現代人が何でもお金に換算する、
経済的価値と言ってもいいでしょう。
すなわち、お金に換算できるような価値はない!
手を掛けて付加価値を増やしていくような、
生産物としての、価値はないとおっしゃるのです。
さらに現代芸術は、なぜ過去の芸術に劣るか?
との命題に対する答えとして、過剰を言われる。
現代には、あまりにも多くの教養や余計なものがあって、
人々はそうした余計なものに心を費やしているために、
芸術のように非生産的な光に、到達できない。
昔は余計なものが少なく、精錬されやすかった!
まったくその通りで、現代は過剰の時代であり、
物ばかりでなく情報も、大量に垂れ流されている。
その中に身を任せていれば、真実に出会うことは難しく、
多くの人は不満だけを持ち、主体的に生きなくなる。
芸術は、お金のような尺度で計れるものでなく、
人間の中にある本質的なものの「表出」であって、
これを鑑賞する感性もまた「表出」にほかならない。
すなわち、表出と表出の出会いが芸術だとされる。
なるほど、吉本さんらしい明快さでした。
過剰による意味の変容は、知っていましたが、
本質的な芸術を遠ざける、過剰の弊害については、
今回初めて、理論立てた話を聞いた気がします。
ついでに、こんな本が出ていたので、紹介しておきます。
「吉本隆明の声と言葉。?その講演を立ち聞きする74分?」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4902516195?ie=UTF8&tag=isobehon-22
今も多くのファンを持つ評論家に、
吉本隆明と言う人がいます。
よしもとばななさんのお父さんです。
もう80歳を超えている人ですが、
去年の夏に講演会があったようで、
昨夜はその様子がテレビで流されました。
僕はたまたま、その最後の方を少し見ました。
肉体的には、老齢を隠しようもない、
痩せこけた顔を上に向けて、熱心に話す、
その内容はふくよかで、つい聴き入ります。
話されていたのは、芸術の価値について。
その後すぐに、編集後記がありまして、
糸井重里さんが、吉本宅をおじゃまされ、
無価値の芸術の価値を問いただされました。
これは講演の締めくくりに、話されたことです。
おおざっぱに言って、芸術には価値がない!
この価値とは、現代人が何でもお金に換算する、
経済的価値と言ってもいいでしょう。
すなわち、お金に換算できるような価値はない!
手を掛けて付加価値を増やしていくような、
生産物としての、価値はないとおっしゃるのです。
さらに現代芸術は、なぜ過去の芸術に劣るか?
との命題に対する答えとして、過剰を言われる。
現代には、あまりにも多くの教養や余計なものがあって、
人々はそうした余計なものに心を費やしているために、
芸術のように非生産的な光に、到達できない。
昔は余計なものが少なく、精錬されやすかった!
まったくその通りで、現代は過剰の時代であり、
物ばかりでなく情報も、大量に垂れ流されている。
その中に身を任せていれば、真実に出会うことは難しく、
多くの人は不満だけを持ち、主体的に生きなくなる。
芸術は、お金のような尺度で計れるものでなく、
人間の中にある本質的なものの「表出」であって、
これを鑑賞する感性もまた「表出」にほかならない。
すなわち、表出と表出の出会いが芸術だとされる。
なるほど、吉本さんらしい明快さでした。
過剰による意味の変容は、知っていましたが、
本質的な芸術を遠ざける、過剰の弊害については、
今回初めて、理論立てた話を聞いた気がします。
ついでに、こんな本が出ていたので、紹介しておきます。
「吉本隆明の声と言葉。?その講演を立ち聞きする74分?」
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