日本語の主語

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学校では、日本語の主語は省略されることが多いと教えられます。
特に古い文学作品では、述語やその他の言葉遣いを判断材料にして、
敬語の程度によって、誰が主語かを判断することになっている。
「なぜ?」との問いかけは無視して、そういうものだと教えられ、
理由はわからないまま、まる覚えするしかなかった気がします。
ところが最近になって、自分なりにその理由がわかってきました。
そのきっかけは、「ご苦労様!」と言うねぎらいの言葉でした。

東京での会社員時代に、僕がなにげなく「ご苦労様です」と言うと、
上司から、それは上司が部下に向かって言う言い方だと注意され、
同僚や上司には、「お疲れさまです」と言うように指摘されました。
これもなんだかよくわからないまま、相手がそう思い込んでいるなら、
無理に異を唱えるほどのことでもないだろうと、従っていたものです。
たしかに時代劇では、偉い人が平民に向かって「ご苦労様」と言い、
「お疲れさま」とは言わないのですから、何か意味はありそうです。

ところが田舎暮らしを始めて、シルバーの人たちと話をしていると、
彼らは平気で、目上の人に対して「ご苦労様です」と言っている。
ときにはさらに丁寧に、「ご苦労様でございます」などと言う。
お年寄りの方が敬語には厳しいはずなのに、これはどうしたことか?
と考えていて、ふと気付いたのが、主語が省略されていることでした。
「ご苦労様」とねぎらうのは、自分ではないのだとしたら・・・
相手をねぎらう時に、自分のような小さな人間がねぎらうのではなく、
偉大な価値観としての、真善美を兼ね備えた「神」がねぎらうのを、
自分は恐れ多くも代弁して、「ご苦労様」と言うのだとしたら!

今の人たちは何でも自分中心に考えるから、自分の身分を考える。
ところが古い日本文化では、神を中心に考えるから何にでもへりくだる。
その典型が、今では理解されない「もったいない」の言葉であって、
あらゆるものに神の心を見る人にとって、捨てることはもったいない。
これはけっして経済観念ではなく、神をないがしろにしない心なのです。
いわゆる日本的な社会や経済とは、神の心を活かすものでなければならず、
日本型の民主主義とは、神の心を汲む民としての平等を求めている。
そう理解した時に、主語の省略まで含めて日本文化が理解出来たのです。
自分が発する言葉さえ、主語は神だから、恐れ多くて言えないのです。

自己を明示しないこうした態度を、無責任だと思うのは間違いでしょう。
むしろ、神と共に在って話すのですから、いい加減なことは言えない。
子どもを諭そうとする親心さえ、神の心を代弁するものですから、
自分勝手な言い分だけを言って良いはずがなく、社会性が大切です。
「他人様に迷惑をかけない」とする教育は、こうした心に拠り所がある。
日本文化にある、あうんの呼吸も、神の下に等しく平等の心なのです。
たぶん学校の先生もPTAも、知らないから教えられないでしょうが。

こう考えると、若者の「俺様文化」を批判する前に、大人の問題として、
学校や社会の教育で、経済の繁栄だけを教えたツケが噴出していることを、
いやが上にも思わずにはいられないし、方向転換の糸口も見えてきます。
新しい時代の新しい価値観は、けっして百年前と同じではないでしょうが、
失われた大切なものが何であったかを検証して、未来に活かすことはできる。
温故知新とは言い古された言葉ですが、今あらためて数千年の和の文化を、
その本質が何であったかを、見極めておくことが肝要かと思うのです。