ソクラテスの杞憂

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現代は人類史上における、大きな情報革命の時代として、
文字活字の文化から、映像画面の文化へと移行しています。
これをデジタル情報量で換算すると、膨大な飛躍があり、
それに反比例して、人間は自分でものを考えなくなってもいる。
いわゆるテレビが普及した時に、一億総白痴と言われたように、
情報量が膨大だと、自分で考えなくなるということです。
さてこれは何を意味し、どこまでが本当なのでしょうか?

最近の脳科学言語学の発達には、目覚ましいものがあり、
たとえば欧米のアルファベット文字文化で活性化する脳の部分と、
中国などの漢字文化によって活性化する脳の部分とは違っており、
漢字仮名交じり文の日本語では、また違った活性化があるとされる。
こうした研究成果は、どの文字文化が優れているわけではなく、
それぞれの文字文化が、かつての口承文化から移行する中で、
かつてない新しい脳の活性化が行われたことが重要だったのです。

ちょうどソクラテスの時代に、文字文化が台頭してくると、
彼はその文字文化を、人間を堕落させるものとして批判します。
書き文字は覚えることの代用物となって、記憶を失わせてしまい、
知識を自分で育てる能力、考える力を無くしてしまうと言うのです。
テレビによる白痴化や、映像文化による考える力の喪失など、
現代の情報革命において、広く言われているのと同じ心配を、
哲学の始祖と言えるソクラテスが、文字文化に対し考えたのです。

ところがソクラテスが心配した、書き文字文化による問題、
書かれてしまったことが事実となって、自分で考えなくなる!
に関しては、その後、書かれた文章による思考が始まって、
過去には無かった文字文学を育てながら、新しい可能性を開いた。
すなわち、初期においては受け身でしかなかった相対のし方が、
使いこなすことによって、新しい可能性を広げていったのです。
これはソクラテスの杞憂として、現代にも通じる気がします。

ただし忘れてはならないのが、失われる可能性のあるもので、
ソクラテスが心配したのは、実は書き文字文化そのものではなく、
人々が自分でものを考えなくなること、その現象だとすれば、
同じ心配は、現代の方が当時よりも大きいとも言えるでしょう。
映像マスメディアを通して、日常的に膨大な情報が流され続けると、
ほとんどの人々は、それを事実として受け入れてしまう危険性が高い。
それを乗りこえ自分で考える人間だけが、徳を得られるというのです。

そうです、ソクラテスは学問の目的は徳を得ることだと考え、
問答もしないような一方的な知識では、徳は得られないと考えた。
この徳とは、真善美と同じように目指すべき方向性そのもので、
常に自分で考えて判断することでしか、身につかないことであり、
だからこそ、書き文字文化の一方向性を憂いたのでした。
現代でも教育レベルの高い国では、自分で考えることが重んじられ、
残念ながら日本では、徳育さえ自分で考えさせないようですが・・・

かつて書き文字文化に対するソクラテスの心配が杞憂だったように、
現代の膨大な情報による映像文化が、人を蝕まずにいられるかどうかは、
ひとえにこの、自分で考える人間を育てられるかどうかにかかっている!
膨大な情報を一方的に受け入れるのではなく、常に批判精神をもって、
何が真善美であるかを自分で判断出来る人間を育てられるかどうか?
この一点にかかっているのではないかと思われるのです。


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