戦後の混乱期

富山県知事選挙の期日前投票立会人を、三日間続けました。
朝8時15分に会場に入って、夜8時15分まで12時間、
二度の食事とトイレへ行く以外はずっと座りっぱなしです。
おかげで足腰膝が痛くなって、ぐったり疲れましたが、
同席したシルバー・センターの人から貴重な話が聞けました。

僕が生まれ育った町内の歴史から、家が建てられた当時の様子。
瑞泉寺から鉄道駅までの道作りで、反対した地主たちの話。
当時広い道路計画に対しては、住民の根強い反対があったこと。
そうでなければ、我が家の前の道路ももっと広いはずだったこと。
小学校の校庭や庭の広い家には、手掘りの防空壕があったこと。

やっぱり戦争前後の話は、興味深いものが多くて、たとえば、
毒ガス部隊に所属して兵役を終えた人には二度と招集がなかった!
とか、近所の山に米軍機がアルミ箔を撒いていったのを集めた!
とか、富山空襲のときは、上空がB-29の通り道だった!とか
終戦後の武器回収では、出さなかった人がけっこういた話など。

一番面白かったのが、戦後初めて数名の米兵が井波へ来たとき、
ジープで武器を回収しに来たので、町の女郎屋で食事を出したら、
何か怒らすことがあったらしく、機関銃を発砲されたとのこと。
誰も怪我はなかったらしいし、関係者はこの件を口外無用として、
当時直接知った人以外は、町史にも載せられていないと言う話。

さらに、現在井波の戸籍は戦後に記されたものに基づいているけど、
実は井波には戦前どころか江戸時代からの戸籍が残っていること。
ただしこの資料は、現代では認められない身分差別が出てくるので、
一部の研究者用資料閲覧以外には、一般閲覧は出来ないとのこと。
地主法の改正でも生き残った永久の下地権の問題なども聞きました。

井波は古い町ではあるけど、その面影は次第に少なくなって、
かつて栄華を極めた花街や演芸場は、今では何も残っていないし、
僕の子どもの頃でさえ、駅から瑞泉寺まで長蛇の列があったのに、
今では商工会がせっせとイベントを盛り上げないと人が来ない。
そもそも観光の町にするのは難しい気はするのですが・・・

70代で町の要職を退いた二人は、止めどなく話をするのですが、
その話の全部に、昭和の町史が詰まっていて、興味が尽きず、
体のダメージとは反対に、心はリフレッシュした気がします。
戦前、戦中、戦後と、価値観がガラリと変わった暮らしの中で、
逞しく生き抜いた人々を支えたものは何かが、面白いのです!

それは紛れもない、八百万の神々に対する畏敬の念であって、
実はどんなイデオロギーでもなかったところが日本なのです!