炎と液晶LED

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いつもより早く寝ると、いつもより大幅に早く目覚める。
これがまあ、適度に早起きしたいときの難しさで、
7時前に起きようと11時に寝たら、4時に目が覚めました。
携帯の液晶パネルで時間を確認し、もう一度寝ようとしたら、
しばらくの間、小さな液晶LEDが部屋全体を照らしていました。
それは細い一本のロウソクくらいの光量でしょうが、
そこに「ゆらぎ」のないことで、いろんな事を考えました。
でもって目が冴えてしまい、これを書いています。(^_^;)

同じように部屋の中を照らす、わずかな明かりなのですが、
液晶LEDには、ロウソクのような揺らぎがまったくありません。
肯定的には、光が安定していると言っていいのですが、
この揺らがない灯りには、想像力の連鎖が欠けている気がします。
たとえばロウソクの火なら、あるかないかの僅かな風に反応し、
炎がグラリと揺れたりすれば、そこから人は様々なことを連想する。
建物の隙間から入り込むもの、屋外の風に乗って飛ぶもの、
夜の海山に潜む、あまりにも大きくて人の目に見えないもの。

そうした魑魅魍魎が駆けめぐる世界と、自分との関係から、
世界で大切なものは何か?人間として生きるとはどういうことか?
なんてことを考え、世界で一番大切なのは自分の女だ!と思う?
とまあ炎の揺らぎには、そんな連想をさせる力があるのです。
だけど安定した液晶LEDには、命への連鎖が感じられません。
合理的な光源としての安定を望むなら、LEDの方がいいのですが、
人が灯りに望むのは、そうした合理性ばかりではないのです。
すべてが理路整然と明らかで、正しいものがはっきりしている・・・
僕らはそんな世界に住んでいるわけではないと言うことかもしれません。

正しいと思ってやっていることが、他の誰かにとっては迷惑だったり、
美しいと思う行為が、他の誰かには醜悪にしか感じられなかったりする。
これが人間界の真実なら、誰にも正しさや美しさを押し付けられない。
そうした不確実な世界で生きるには、二つの選択肢があって、
一つは誰にも迷惑をかけないように、なるべく何もしないで生きる。
もう一つは、悪人になることも厭わずに、思うがままに生きる。
だけど実際には、そう簡単にどちらかというわけにもいきません。
誰にも迷惑はかけたくないけど、自らを活かしていきたいと思います。
そこであれこれ考え悩んだ末に、理想を持つことを覚えるのです。

理想は理想で、すぐにそのまま叶うような現実ではありませんが、
現実の中で道に迷ったときには、遠くの灯台の灯のように、
自分が向かう方向を、目前の現実に惑わされずに教えてくれます。
連想連鎖のない液晶LEDの世界ではなく、自然界の広がりの中で、
あらゆる可能性から、自分の今ある姿を映しだしてくれるのです。
揺らぎのない灯りの閉塞感に比べれば、揺らぐ炎は無限の連鎖を持って、
僕らを夢と希望の世界へ連れて行ってくれる気がしてくるのです。
僕らはどこまで行っても、自然界のほんの一部にすぎないのです。

まだ夜明け前の秋の早朝に、こんなことを考えて書き留めました。
う~ん、今日の立会人は、途中で眠くなりそうですね・・・・