亡者の国

昨日たまたま、NHKの「その時歴史は動いた」をみたら、
日本の終戦から敗戦へ至る18日間が、検証されていました。
ちょうどその時間帯、他の局では自民党総裁選の立候補者が並び、
政府が作った膨大な借金返済に、消費税を上げる話をしています。
どちらを見るともなしに、両番組を交互に見ていたのですが、
時代の変化と、それでも変わらない日本人気質を思わせられました。

まず1945年ですが、日本では8月5日を終戦記念日としている。
だけどアメリカは、正式に降伏調印をした9月2日を戦勝記念日として、
今でも毎年国を挙げて盛大に記念行事をしているというのです。
この違いの間に潜むものは何なのか、考えてみると興味深いのです。

多くの日本人が知っている通り、8月15日は天皇玉音放送があって、
それまで、負けるときは総玉砕と思っていたのが腰砕けになった。
納得出来ない軍部では、降伏調印を妨害しようとする兵士がいたり、
幹部でさえ、この調印に出席することを屈辱として拒否し続ける。
この状況をなんとか抑えて、国体護持のために敗戦を認めさせたのが、
ほかでもない、天皇と皇室のメンバーだったようなのです。

そして降伏調印式の前日、高松宮が国民に向けたメッセージでは、
日本が戦争に負けた理由として、五つのことがらが述べられました。
(1)原爆が落とされたこと。(2)ソビエトが参戦したこと。
(3)軍備が衰えてきたこと。(4)政府の政策が失敗したこと。
(5)国民の道徳心が乱れてきたこと。
この状況では、もう戦争は続けられないと説明して、
国民総懺悔による、国の建て直しを訴えるというものでした。
まるで他人事で、自分たちの責任は何も言及しないのです。

言わずとしれた、国体護持のための敗戦受け入れだったのですが、
この国体とは天皇制のことであって、だからこそ終戦後の憲法では、
天皇制をどのように引き継ぐかが、一番大きな問題だったのでしょう。
だから終戦、敗戦、新憲法制定のどこにも、天皇の責任は出てこない。
百歩譲って、象徴天皇による日本の国体を受け入れるとしても、
軍と政治の責任者が誰も責任を認めない体質は、勘弁してほしかった!

日本では8月15日の終戦記念日だけを、慰霊の日として残し、
敗戦調印をした9月2日のことは、記憶のかなたに忘れてしまった。
同じように政府や役人は、様々な失政をしても誰も責任を取ることなく、
国を滅ぼすほどの借金を作った張本人が、いまだに政治家として活躍し、
それどころか、次期総裁の隠れた期待さえ持たれているのです。
自分たちの失政を誤魔化す経済的手当をどうするかが政策論争で、
失政の張本人は裏に回り、偉そうに他人事のコメントをするだけです。
この国の将来を何処に向かわせるか、まったく見えてきません。

国の経済がいくら拡大しても、かならずしも国民は幸せにならない。
このくらいのことは、もう多くの人がわかっていることなのに、
そして政治だけが、経済以上の政策を提示出来るはずなのに、
この国の政治は、様々な委員会で経済に牛耳られているのです。
やがて、もっとも税金の無駄遣いとなる軍事費がさらに増大しても、
国民の生活を守る社会福祉のゴタゴタに使う費用が増え続けても、
言い訳による説明責任が果たされ、誰も責任を取らないで終わるのです。

どうせ誰も責任を取らないのなら、誰が責任を負って行動するのか?
彼らの責任は、誰が辞めても首をすげ替えるだけで終わる程度に軽く、
公務員は、法を守って何もしなければ安泰でいられるのです。
法制度は人の心を具現化するためにあるはずなのに、心は失われ、
政策に失敗すると、責任を取らずに総懺悔で総力戦だなんて、
まるでこの18日間の呪縛から、逃れられないかのようでしょう!