昨夜、久しぶりにまとまった雨が降りました。
このところ、寝室の小さな窓は開けっ放しなので、
ベッドに横になっても、雨の水音が聞こえてきます。
けっこう大きな音が、うるさいほどにも聞こえるので、
騒がしくて眠れないかも、と思ったほどだったのに、
さほど時間も掛からずに熟睡してしまいました。

考えてみれば、耳はずっと開きっぱなしなので、
聞いていようがいまいが、音はずっと耳に届いている。
それどころか、母親の胎内にいるときから音は聞こえて、
亡くなる直前の、最後に残るのも聴覚と言われている。
それほどまでに命と共にありながら、聞こうとしないと、
簡単にシャットアウトしてしまえるのも音なのです。

「聞いている」以前に「聞こえている」のですが、
さらに「聞こえる」以前に「届いている」のが音なので、
存在しているのに気付かない、典型的なものとも言えます。
僕らはその、あらゆる存在の中から選択的に聞いている。
とすると、実は音に限らず、人は選択的にしか認識しない、
自分に都合の良いものだけに気付いて生きているのです。

そうわかってしまえば、何が真実かなど関係ない、
僕らはただ自分の都合に合わせて生きているだけなので、
不都合なことは、聞く耳を持たず生きていけばいいのかも?
ところが人間社会は、とても複雑になってしまったので、
そう簡単には、何が大切な音なのかわからなくなっています。
そこで意識して、普段は考えないようなことにも耳を澄ます。

すると最初に気付くのが、人はいかに多くの音を切り捨て、
存在しないかの如く、聞かずに生きているかって事でしょう!
そこには無限の世界が広がっているのに、感知していない。
小さな虫の音や、空気の揺れる音や、肌の音や体液の音など、
聞こうとさえすれば、命の存在に関わるあらゆる音が蘇り、
消費者や人材ではない、個性や人間性が広がってくるのです。

我々のこの世界を「絶対不可解」と呼ぶ人がいます。
人に出来ることは、この不可解を了解した上で肝をすわらせ、
存在することの奇跡を受け入れて、まず味わい尽くすこと。
五感をもって受け入れ、五体を持って表現することでしょう。
豊かさとは、今ここにある奇跡を存分に活かせること!
音と耳の不思議から、そんなことを考えた朝でした。