補完性の原則

僕は政治のことを専門的に勉強したことはないので、
「補完性の原則」とは何のことか、知りませんでした。
ところがこれを知ってみると、普段から僕が主張している、
なるべく小さな地域単位で、生活を自立させる!ってことと、
まったく同じなので、驚いてしまいました。しかも、
「上位組織が下位を補完するという地方自治の原則」とあって、
これはEU自治憲章の根底にもなっているようなのです。

さらには、日本にもこうした考えを取り入れた地域があって、
いくつかの市町村合併には、この考えが取り入れられ、
富山のお隣でもある、岐阜県の五カ年計画「県民協働宣言」では、
県政の将来を決める指針においてさえ、この考えが基本にある。
富山県だけを見ていると、いつまでたっても見えないものが、
ちょっとお隣の岐阜県では、県政の指針でさえあるのです。
実際にこの宣言を読んでみると、僕にも希望が見えてきます。
http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11121/sengen/index.htm

これに比べると、富山県の行政は「逆補完性」の原則にあって、
県政は国政の出先機関のように、霞ヶ関の動向に従うばかりだし、
市民は市町村役人に従い、市町村は県に従い、県は国に従う。
さらにこの国はアメリカに従うのだから、市民に自由はない?
そこにあるのは、お上が認める良い成績を取って上に登る、
上り詰めても、自分の理想とは関係ないから何も出来ない、
ただ私利私欲をむさぼる、官僚の補完物になるだけなのです。

その国政でさえ、地方の自立や地方分権を謳ってはいますが、
実際にやっていることは、国民の全体を管理する方向にあって、
国民を主体とした補完性の原則からは、ほど遠いものでしょう。
政府や与党は、国政に携わるものの責任!としばしば言いますが、
裁判によって違憲とされたことにも従わないような内閣では、
独善に走って、国と国民の将来を危うくしていると言うしかない。
なぜこんな異常がまかり通るかと言えば、主権官僚だからです。
市民が自立して生きようとしていない!と言えるかも知れない。

個人-家族-コミュニティ-市町村-県-国-国際社会
こうした関係の何処を一番大切にして社会を構築していくのか?
それによって社会の将来は、まったく違ったものになってくる。
僕は自分の生き方として、個人の自由を最大限望むものですが、
現実には、その意味を理解しない人が多いことが想像されるので、
参加している個々人の顔が見える、コミュニティを最優先にしたい。
個人や家族はここを生活の拠り所として、いずれかに参加をし、
市町村はこれを補完し、県はその足りないところを補完する。

国の権力は、小さければ小さくて済むのが、豊かな証になるし、
この状態での安全保障をするのが、国際社会の役割になる。
その何処にも武力など必要ないし、強引な経済開発も要らない。
大切なのは、それぞれの地域に合った生き方を工夫することで、
それが集まって、世界全体が持続可能な社会にもなれるのです。
僕が自然農にこだわるのは、地球上の至る場所に住む人にとって、
その地域に合った自立の基本が、自然農だと思うからです。