フィロソフィア2007

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3年前のスタート時には、ソクラテスを取り上げていたフィロソフィアが、
その後はルネッサンスの意味や、ポストモダンの意味の検証に進んで、
今年はそこからさらに、将来に向けて何を大切に考えるかを模索し始めています。
そうした方向性を決めた8月の集まりには、偶然うまく参加したのですが、
今回の第16回「スピリチュアリズムの展開~『愛の星』への『でくのぼう革命』」
これは、講師の先生をまったく知らなかったのに、何故ともなく強く心を引かれて、
日程的には今年の農作業が終わったところでもあり、都合を付けて参加しました。

12月2日の午後2時前、飯田橋の近くにある指定された会館に行ってみると、
すでに十人くらいの人が見えていて、前に座っておられる人が講師の先生とわかります。
僕は少しでもしっかりと話を聞きたかったので、空いていた前列に席を取りました。
2時を過ぎて、代表の小林教授が都合で遅くなるために、参加者の自己紹介からスタート。
大学関係者が多いのはいつものことでしたが、講師の山波先生に惹かれてきた人もいて、
いつもとは少し違った緊張感の中で、自己紹介が終わり、その頃教授も見えられて、
およそ20分遅れで挨拶されたあと、すぐに山波先生のお話が始まりました。

今回講師の山波言太郎先生は、リラ自然音楽研究所の人と言われても何のことだか?
僕はまったく存じあげなかったのですが、実は浅野和三郎さんが立ち上げた、
心霊科学研究会の流れを汲む日本心霊科学協会に参加して、研究をされた人と聞いて、
以前関心を持って見ていた、日本の古神道の心の流れを持つ人だと了解しました。
こうした世界を話せる人は珍しく、僕にとっては鎌田東二さん以来のことにもなります。
その鎌田さんも、宮沢賢治のことを高く評価していましたが、山波さんも同じで、
賢治の描いた作品には、霊性の世界が見えていたと思われる文が多いと指摘されます。

「人間とは何か、どこから来てどこへ行くのか。〈ネオ・スピリチュアリズム〉」
と題された山波先生の講義は、その趣旨において人間の在り方に答えを求めると明言され、
ストレートで真っ向勝負のような、人間探究そのものの話になることは明確でした。
今回は入門編とでも言うか、1848年のフォックス家事件に始まったとされる、
世界の科学的心霊研究の話から、1923年に浅野和三郎が始めた日本の研究会など、
歴史的な展開を示しながら、スピリチュアリズムの正体を解き明かしていきます。
その話を聞いているうちに、僕は子どもの頃から現在までの自分を振り返りました。

どうしても肉食が出来なくて苦しんだ子ども時代から、幽体離脱の体験をした十代の頃、
大学卒業後に就職することを拒んで旅をしていた時に、母が見た雨の中の僕の姿は、
どう考えても見えるはずのないものを見ていた母の一面を知るきっかけでしたし、
それによって僕は、コリン・ウイルソンの「アウトサイダー」などを読むようになる。
自分が感じていた世界と、知識の世界が、一気に近づいた記憶を思い出していたのです。
大学や研究機関まで含めても、社会の常識や学問が如何に偏狭なものでしかないか、
長年に渡って感じていたことを、再びここで確認させられた気がしたのです。

「スピリッチュアリズムの展開」では、スピリッチュアリズムとは何か?と設問して、
霊魂は存在すると科学的にも証明されていることを示しながら、その価値観の上で、
人間はいかに生きるべきかと問い掛けていくのですが、こうした話の展開も面白い。
僕の場合は、かならずしも霊魂の存在を証明されなくてもかまわないのですが、
自分の五感と自然とのコミュニケーションの帰結として、大いなるものを直感している。
これが神であれ、霊魂であれ、呼び方はどうでも、僕にはリアルな存在なのですから、
これを前提に、どう生きるか?を問うことは、とても大切なことだとわかるのです。

死とは何か?との問い掛けに対しても、山波さんは、人は死なないと答えられる。
どうやらそれと同じことを、僕は「死」は観念上のものでしかないものと受け止めて、
リアルな世界には変化変容だけがあって、死も無も「ない」のだと知っている。
それでは何が存在するのか?と言えば、「どうあろうとするか」だけが「ある」。
この状態はあまりにも浮遊しており、人間が肉体を持って存在するには不安定なので、
人は何かと繋がることで存在していると言うことでしょう。その何かが問題なのです。
人は神と繋がることで「善きもの」ともなり、サタンと繋がれば「悪しきもの」となる。

こうして最後に山波さんが教えられたのは、愛と奉仕と反省による言行想の一致です。
1、いつも世のため人のため地球のためを考えて、祈りを持って目の前にある仕事をする。
2、食の大切さを知り、釈迦の教え通り、人はその食べたところのものであると知る。
3、万物との対話を心掛けて、植物であれ物であれ、言葉を掛けることで友達になる。
こうした心がけで生きて、人の悪口を言わない、人の所為にしない、自分を悪く思わない、
と自戒していれば、なるほどここまでは、僕が思い至った生き方に似てきます。
最後にはすべての存在が善きものとなって、この世は神の世界となる・・・。

実は最後のところは、僕自身は疑問を持って受け止めていることも事実です。
というのは、存在を味わうと言うことは、かならずしも良い面ばかりではないので、
僕は良い面も悪い面も含めて、なにしろそれは視点を変えれば意味も変わるのですから、
全部受け入れて味わえる世界になればいいように、今のところは思っています。
これは自然農をやりながら、いつとはなく感じるようになったことでもあるのですが、
自然界には邪悪なものなど何もないので、人間の営みも自然に近づけばいいだけで、
すなわちなるべく自然に近しく生きる、わびさびの世界でいいように思うのです。

サタンとは何か?を問いつめていけば、もしかすると神と同じ正体かもしれない。
いや、そうであろうとなかろうと、人は自ら望むように生きればいいわけで、
その方向性が「善く生きる」であれば、人はかならず善く生きることが出来るのです。
すなわちサタンを思う心がサタンを産み、愛を想う心が愛を産みだしていく。
そうした心の方向を間違わなければ、人は幸せに向かって歩いているってことです。
僕は特別なことなど何も出来ないし、特別なものなど何も持ってもいないけど、
何を持っていようがいまいが、大切なのは、どう生きるかだけだと思うのです。

今回は、7時間に及んだ講義の報告と言うよりも、その時間から考えたこと、
感じ取ったことの報告になってしまいましたが、たぶんこれが僕の報告なのでしょう。
自由に主観的になれた分だけ、山波さんをお迎えしての講義が僕の心髄に触れたのです。
こうした人との出会いによって、僕はまた一段と豊かになっていく気がします。
それは様々なものをあきらめた時に見えてきた、一つの世界かもしれません。
だけど本来求めた物がここにあることはたしかなので、ありがたく受け止めます。
さらには、ここにこうした報告が出来ることにも、感謝せずにはいられません。

この世界の森羅万象に、ありがとうございます。


山波言太郎さんの
「デクノボー革命の軌跡〈1〉リラ自然音楽のスピリチュアルな意味」
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