幽霊船 (4)

 紫とピンクが、黄色と青に犯されたあざやかなワンピースを着て、足にはライトグリーンのショートブーツを履いた。少し心が浮き浮きとして、彼はこの奇抜な服装にふさわしいロングソックスと首飾りを求めて、衣装室のドアを開けた。木製の彫り物をあしらった、左右へ開くドアだった。両側にずらりと女物の衣装が並び、三十着ばかりの大人物の向こうには子供用のものも十着ばかりぶら下がっている。その奥に、明るい窓ともう一つのドアがある。彼は気に入ったメロン色のソックスと孔雀色のスカーフを持って、奥のドアを開けた。だあれ、と女の子の声がした。

 彼は黙っていた。朝色のカーテンに片手をつかまり、目に真っ白い包帯を巻いた少女の姿が見えた。彼は近づいて少女の手を取ると、自分の口の所へ持っていき、指先を揃えさせて唇に当てると、ゆっくり首を左右に振った。それですべての手続きは整った。少女は彼の服にさわってみる。手に覚えのあるやわらかなフィオルチの感触がする。少女は気を許し、いろんなことを話し始める。ちょうど誰かとおしゃべりがしたかったところなのだ。小熊のプーさんでは全然動かなくて物足りないし、ばあやときたら口うるさいばかりで、目の不自由な夢の国のお姫様のことなんてちっともわかってくれないのだから。その上、今相手をしてくれる子は口をきくことができないのだから、何を話しても、それを他の人にまで知られてしまう心配がない。彼女はその子と手をつなぎ合って座り、ただ時々、相手が自分の話を聞いてくれていることを確認するだけでいいのだった。彼もまた、そんな少女の姿を誰にも気兼ねなく、見られている少女の意識にさえも邪魔されることなく自由に見つめていると、自然に胸の奥が火照るような不思議な幸福を味わった。中でもほんのりとした少女の顔は、あらゆる尊敬と愛情と欲望の念を起こさせ、彼はとうとう我慢できずに、少女の包帯を取って見せて欲しいと意思表示した。少女は、おそらく服を全部脱いで裸になるよりも包帯を取ることを恐れたが、やがて命が枯れることをも覚悟したかのようにおごそかに包帯を取った。彼はこの地上の美術品のすべて、人間の英知と芸術の限り、宇宙の最も奥深い秘密を目の前にするかのように、青くて熱いクレジオのような目をして、しっかりと少女を見守った。少女は包帯を取るとまっすぐに彼の方を向いた。

 一瞬、少女は目が見えた。世界はいたる所で四角く区切られ、少しも留まることなく、それでいて何も変わることなく、退屈で、つまらない、死を待つ間の恐ろしく孤独なゲーム場なんだと、その一瞬、包帯を取って目を開き、わずらわしいまでに多くの光に満ちた外面の世界を垣間見たときに知ってしまった。そうして少女の目が彼の目を見た。彼にはわからなかった。ウエーブするやさしい光に包まれてじっと彼を見ている神秘的な少女の目が、何を見ているのか、何かが見えるのか。少女は再び口を開き、とりとめもない話を続けた。彼は美しい音楽に酔って少女を見守っていた。見ていることは幸福だった。そこには限界がなく、自分を認識する必要もない。だから気軽に神になることもできる。見られているものは、いつも完成されていて終わるということもない。欠けているものが何もないのだ。彼はずっと黙ったまま、足音さえも忍ばせてソファーに座った。これで見ている者の存在がはっきりとした。これで少女は踊り出すことができる。少女は、見ていてくれる相手がいなければ生きていることさえ疑わしいと信じていたのだから、見ていてくれる者に最高のサービスとなるように創作しておいた不思議の国の踊りを見せた。きゃしゃな手足を情熱の力で空に泳がせ、くるくるくる、としなっては静止する。あざやかな色彩の衣装に身を包んだ愛らしい少女である彼に。彼が去って行かないことを条件にすれば、少女は自らの胸に短剣を突き立てることをもいとわなかっただろう。もちろん、少女はその相手を愛していると勘違いしたわけではなかったが。部屋の中に家具らしいものと言えばベッドとソファーとステレオと、たぶん兄か父親のものだろうと思われる大きくて頑丈なデスクが一組、カミュマザーグースを立てかけて置いてある。あとは春色の花模様の絨毯を敷きつめ、十二色の花びらを詰めた壁に囲まれた空間が、静かに沈んでいるきりだった。


      ◇  ◇

 やがて時は急流に差し掛かり、ふたりは一緒に食事を取り、同じベッドで安眠した。部屋から一歩も外へ出ずに、彼は少女の奏でる音楽に耳をかたむけ、少女の手を取って安心させ、神であることの幸福に揺れていた。しかしある日の午後には大人達がやってきて、然るべくすべてはぶち壊されて終わった。追われるようにそこを出てモノクロに流れる外の空気を吸えば、既に一切は終わっていて、何もまだ始まっていないということがよくわかった。今しもその最中なのだ。人を欺くための言葉、常にあらゆる期待だけを押しつけるコピーがあたり一面に氾濫して、人々を忠実な消費と労働に向かわせている。議事堂型のゴミ箱から汚物のはみ出した街角には、原子力の灯を一面に大きく称えて社会の良識を代表する新聞が、海からの風に舞ってくしゃくしゃになっている。彼は街の風景には目をくれず、浮き立つ心に揺さぶられながら踊るように駆けてみた。彼は目を閉じる必要もなく、いつどこにでも少女の姿を見ることができた。少しずつ姿を変えながら彼が望む通りの姿態になって現われ、それ以外の目に映る一切のものを架空の世界へと押しやってしまう。

 彼はまずメインストリートに近い衣料品のマーケットへ行き、気に入ったシャツとズボンを探して試着室で着替えると、脇目もふらず店を抜け出た。次に裏の靴屋へ行き、走りやすそうな運動靴を履いて飛び出したまま、勝手知った路地を倉庫街まで全力で突っ走った。少し躰はよろけたが、以前よりも軽く走ることができた。追いつく追っ手はいなかった。準備が整い、彼は暮れかかる街をあかね色の風に乗って少女の家へと急いだ。正面から入れてもらえそうにもなく、家と家の狭い隙間を裏手へ回り、およその位置を計って人目がないのを確かめると、すぐに電柱をよじ登ってブロックの塀を乗り越えた。見当をつけた少女の部屋には確かに見覚えのあるカーテンが引かれている。彼は必死の思いで三階のベランダまで這い上がると、ガラス窓にノックして声をかけた。カーテンを分けて少女が顔を出し、驚いて彼を見た。しかしガラス窓は開かれなかった。少女は、あなたは私をどうするの、あなたは私を欺くのよ、私もあなたの思い通りには行かないわ、第一あなたはてんでいい加減で自分勝手だわ、と言うと、カーテンの中が見える程度の隙間を残してさっさと奥へ戻ってしまった。彼には信じられない少女の態度だった。力を込めてガラス窓を叩いてみたが、カーテンの隙間の向こうで、少女はただ冷たい態度を見せるばかりだった。分厚い金銀のモールが幾重にも視界を遮って、確かに幕は下りていた。およそ彼の幸福とは無関係に、ゲームは終わって凍てついていた。彼は膨れ上がる激しいエネルギーを押さえることができず、近くにあった植木鉢でガラス窓を叩き割った。あまりにも突然のことで、少女は逃げようとさえしなかった。彼は少女につかみかかり、かきむしるように服を引っぱり、下着までむしり取って力任せに抱きしめた。しかし立つべきものは立たず、何の抵抗もしなかった少女を犯すこともできないまま、親達に捕まり、パトカーの警官に引き渡された。

 島がゆっくりと流れ出していた。巨大な岩も、根を張った松も、つかまろうとして手を伸ばせば逃げるように流れ出していく。アップテンポのリズムが彼を追いかけてくるが、彼には逃げていく場所がない。みんな知らん顔をして通り過ぎていく。心臓の音だけが怒濤のように押し寄せてくる。ドット、ドット、ドット‥‥‥。夢だった。いくつもの罪状を突きつけられた彼は、町外れの山に囲まれて奥まった施設の中で、ただ過ぎゆく時を眺めていた。裏山の緑さえ、わずかずつながら日々に色を変え、姿を移ろわせる。天はどこにもないが、大地は足許で静かに彼の息に呼吸を合わせる。施設の生活は、自分の非力と失望に疲れた彼にとっては、ちょうどよい休息になった。彼は施設の中にいてさえ巨大な黒い船の姿を見たが、それはむしろ懐かしく、町にどんな不幸が起きようと知りたいとは思わなかった。施設を出たのは夏の盛りの好く晴れた日だったが、早朝のことで不快な熱射もなく、片側を赤レンガに続く道の遠く先には藍色の海も見えていた。道は途中まで水平に続いた後、ゆっくりと海へ向かう下り坂になっている。身元を引き受けに来た母とはそこで別れ、彼はまっすぐ海へ向かって歩いた。吹き上げる潮風に顔を向け、広々とした海や空の青を見回しているうちに、彼は思いがけず目頭が熱くなって涙を流した。行き先は海しか考えられなかった。

 彼は海へ行く。なるべく人間の匂いのしない、静かな浜へまで歩いて行き、岩陰に服を脱いで海に入った。もう日は高く、冷ややかな海水も気持ちよく彼を迎えた。潮流に巻かれながら沖へ沖へと泳いでいけば、やがて小さな無人島に泳ぎ着く。周囲が五百メートルほどのおよそ人間の気配とは無縁の島だ。すぐ足の側を小魚が走り、小さな蟹の群に混ざって、ときには得体の知れない虫の類も人目に触れずに隠れている。島に立って振り返れば、長く続く陸の遠くはかすんで見えない。それでも町を含めた海岸線の全容はよくわかる。彼は砂の上に寝転がり、太陽に向かって手足を広げた。ゆっくりと汗がにじみ出し、干し上がって白い跡を残していた海水の塩が、汗に再び溶けて静かに流れ出す。彼は全身で太陽を挑発した。しかし広げた躰の正面で、太陽はただじりじりと彼を焦がし、決してその胸に寄りつくことはない。彼は狂おしかった。大地が背中に張り付いている。重力が彼を閉じこめて離さない。彼は全神経を集中して形なき存在に呼びかけた。俺の太陽、俺の海、俺の大地を俺にくれ。遙かな空の一点にまばゆい発光が輝き、地鳴りのように重い音が彼を揺さぶった。沖合の海面が丘のように高く盛り上がり、素晴らしい早さで寄せてくる。小島の近くで崩れる白い壁となった津波は、彼の頭上で遠い太陽を含めたあらゆる目に見えるものを呑み込んでしまう。彼は何も受け取ることができず、何も抱き止めることができない。彼はただ漂うばかりだった。