“根元的な問”への“人間的な解”

特に報酬もないのに、様々な市民活動をしていると、
「そんなことをして何になるの?」と問う人がいます。
これは何と根元的な問いかけなのでしょう!

たとえばブログを書く行為に対しても言えることで、
中には、少しでも多くの訪問者を得て有名になりたいとか、
アフィリエイトでおカネを稼ぐ人もいるでしょうが、
ほとんど多くの人は、心の繋がりを求めて書いている。

「なぜブログを書くのか?」は「なぜ生きるのか?」と同じで、
何か合理的な目的がある、と思い込む必要のないことなのです。
疑問を持つことは大切ですが、縛られていてはいけない。

“問”は、言葉をもって門に向かうことだとすれば、
“解”は、何かに縛られている人を解き放つものでしょう。

それでは、合理的な目的や答えがないのなら、何でもいいのか?
生きることに何の目的もないまま、その日暮らしでいいのか?
答えのない疑問を持ち続けて何になるのか?との疑問が出てくる。

ここで間違えてはいけないのは、答えがないのではなく、
正しい在り方から人を疎外している縛りを解けば答えになる♪
というシンプルな答えの在り方で、これが鍵になるのです。
答えは自ずからそこにある、と言うしかないことです。

ブログは心の繋がりを求めて書くもの、と思い込む必要もないし、
生きることには、何か合理的な目的があると思い込む必要もない。
むしろ、疑問を持つことで自分を解き放つことが肝要なのです。

答えは「自由」の中に「自然」とあるのだと思うのです。