「和をもって」平和を望む

平和運動をする人の多くが、あるとき無力感に陥る。
そうした現状を思い、抜け出す道筋を考えてみました。

心を軸に考えれば。日本は千年来の仏教国です。
初めて国政に仏教を取り入れた聖徳太子にしても、
国の風土にそうした土壌がなければ難しかったはずで、
その意味からいえば、神も仏も庶民にとっては同じ、
不可知な自分たちの存在に意味を与えるものでした。
明治期になって、政策的に神社と仏閣を分けるまでは、
日本では神社に仏像があってもおかしくなかったのです。
だけどそのような和国では、強国にはなれない。

そこで気付いたのですが、多くの平和活動家たちは、
平和を大切にする自分たちに、ある種の無力を感じている。
だって争いに長けている方が勝つに決まっていると考える。
歴史を見れば、なるほど国政に仏教を取り入れた国は、
長く続くことは難しく、争いに長けた勢力に滅ぼされる。
世界中に仏教徒は多くても、仏教立国は少ないのも、
仏教にある「和をもって尊し」の思想は覇権に弱いので、
やがて強権を求める権力者に乗っ取られるのが常だからです。

民心はいつだって「和をもって尊し」と思っていても、
強い権力を求める者は、それを許そうとは考えないので、
世界に不和の種をばらまいて、機に乗じて平定してみせる。
そして、実力行使こそが平和をもたらすと言い出すのです。
騙されやすく平和を求める大衆は、平和のための力を求める。
力は力を呼び、不信と疑心暗鬼によって、破壊が始まる。
破壊のスパイラルは人々の心をズタズタに痛めつけ、
こんなはずではなかったのに、とやがて気付く。

それでは、どうすれば貪欲な強権指向に立ち向かえるのか?
僕は実は聖徳太子の生き方にこそ、大きなヒントがあると思う。
彼は蘇我入鹿に攻め込まれたとき、反撃はしませんでした。
見かけ上の勝利ではなく、自らの生き方に成就を求めたのです。
だからこそ千年を越えて人々の心に生き続けたとも言える。

果てしなく数値化される、目前の利益だけを追い求めたり、
世界中の他者を押しのけて、自分が勝つことばかりを求めれば、
生涯争いの中にいて、平穏に生きることは困難になるでしょう。
しかしながら、いずれ滅びることを覚悟に和をもって生きれば、
そのまんま最も望ましい生き方を成就して暮らせるのです。

哲学も宗教も、死に向き合ってこそ成り立つのはそのためで、
ただ恐れおののき、あるいは美化することで逃げていては、
権力者に都合よく振り回される、材料にされるだけでしょう。
「和をもって尊し」を生きるとは、死をも覚悟して和を尊び、
あらゆる覇権への誘惑を笑い飛ばす、愉快にこそ真があるのです。