神の使徒

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お金経済と利権にまみれて、久しく民心から離れてしまった宗教。
人間の魂の救済と言った、本来の役割を取りもどそうとする動きもあって、
僕も何度か参加させていただいた「公共平和フィロソフィア」では、
公共的霊性スピリチュアリティー)を平和活動の核に置こうとしています。
6月の日本平和学会でも「スピリチュアリティと公共的平和」というテーマで、
分科会がある旨の案内がありました。僕のような民間人も参加できます。

今日は土曜日と言うことで、エホバの証人グループの人がやってきて、
ものみの塔」「目覚めよ!」なんて小冊子を置いていきました。
近隣では、砺波と福光に集会所があるようで、勧誘活動が盛んなようです。
今では南砺市の一部でしかなくなった旧井波町は、元は瑞泉寺門前町で、
僕がまだ子供の頃、7月に催される聖徳太子像の御開帳に伴う太子伝会には、
県内各地から大勢の人がやってきて、大通りは大賑わいだったものです。
そうした仏教的賑わいは、今はどこにも見られなくなりました。

学会や宗教界だけではなく、ときには一般市民が「神の使い」だと口走って、
自分こそは特別な存在だと思い込み、平気で人を殺す例も多々あります。
世界中で問題になっているテロばかりではなく、軍事力による大量殺戮や、
爆弾や銃や化学薬品による、不特定な人に対する殺戮行為なども、
すべてどこかで、自分にはそうする権利があると思い込んでいる狂気です。
霊性の問題はかくも大きく、一歩間違えると人間性を逸脱するのです。

さて、それでも僕自身、子供の頃から神との繋がりを強く感じていました。
よくある事だと思いますが、高校生の頃は「神の子」をペンネームにもして、
周囲の人と違う選択をして生きるときには、神との対話を求めもしました。
その神は、エホバでもイエスでも釈迦でもモハメッドの神でもない、
あるいはすべての人が求めた「神」だから同じだと言ってもいい。
そうした神との対話を抜きにして、自分の行為を考えることは不可能でした。
奇蹟の善意も、理不尽な犯罪も、人は神と繋がることで行動するのです。

僕は裕福でもなければ、家族の愛情と友人の信頼以外には何一つ後ろ盾がなく、
人生の多くの場面で行った決心や行動では、そうした情に頼ることもせず、
むしろ進んで孤独の中で、神と対話しながら決めたことが多かった気がします。
楽はさせてもらえないけど、本当に必要なものは必ず用意されている。
その出会いを、僕がいかに活かすことができるかが、人生の醍醐味なのです。
わかっていながら、ときには理解できずに選択を間違えることもありました。

どうしても自分を許せないのは、井波に戻って間もなくの頃、
歩く人の少ない町中の大通りで、一人の初老の婦人に出会ったとき、
「山に帰るバス代がないので、バス代をもらえないか?」と声を掛けられ、
僕はわずかなお金を渡すことなく、警察へ行くように勧めてしまったこと。
なぜ、せっかく与えられた自分にできることをしなかったのだろうか。
世界に神の使徒がいるとすれば、この婦人のような人だと思うのです。
誰しもが自分にできること、それはあまりにも大きいのです。