最近のニュースから

先日の能登地震で、建物の一部が破損した志賀原発ですが、
~ 揺れの強さ(加速度)が、一部で原発の設計時に想定した最大地震
「設計用限界地震」を2倍近く上回っていた ~と発表されました。
それでも北陸電力では、「耐震設計に問題はなかった」としており、
経済産業省も「機器の安全性に影響を与えるものではない」と話している。
国の安全審査に関与してきた入倉孝次郎さんが「早急な見直しが必要だ」
と発言されているにもかかわらず、何を基準に問題ないと言っているのか?

もう一つ、いよいよ琵琶湖が死滅するかも知れないと危惧された、
観測史上初めて、深層の溶存酸素濃度の回復が進まない状況が改善された。
わかりやすく言えば、琵琶湖は冬の間に湖面温度が下がって対流する、
その対流によって湖底まで酸素が供給されて、生き物が生息できる、
この循環が止まると、生態系が壊れてしまうと言うものでした。
今回はなんとか土壇場で回復したようですが、対流しなかった原因が、
地球温暖化と密接に関係しているとすれば、早晩死滅するでしょう。

役所や大企業は、いい加減なことばかり言って人々を危険に晒し、
総体としての人々が目指す豊かな経済生活は、自然環境を瀕死の状態にする。
こんな社会はどこか歪んでいると思わざるを得ないのだけど、
そうした声さえ取り上げられることがないまま、事態だけが進行して、
希望を失った若者が、爆発的に理不尽な犯罪に走るとしたら?
その一つが、格差社会への恨みを込めて銃を乱射した事件だとしたら?
マスコミを賑わすこうした暗いニュースは、根っこが繋がっている?

さらなる大惨事を避けるには、すでに待ったなしの状態が始まっていはずで、
警告だけなら、もう10年前から出そろっていると言ってもいい。
今はそうした警告の通り、次々と予想された事態、それ以上の事態が起きている。
僕らはもう取り返しのきかないところに来てしまったのか?と思いがちだけど、
こうした事態を選択的に作ってきたのも人間なら、変えられるのも人間だ。
僕の座右の銘でもある「望みなきにしもあらず」は、そのまんま、
世界を言い表す言葉ではないのかと、今はそう思うようになったのです。

いつだって早すぎることも遅すぎることもなく、
自分が一番望むところのことを始めるしかないのです。
それは特定の権力者と犯罪者の特権なんかではなく、
命ある全ての自由でしかない存在が抱えている課題なのです。