暴力と自由

昨夜、長崎市長が銃弾に倒れて死亡しました。
バージニア工科大学では銃乱射で32人が射殺された。
こうした事件は、マスコミで大きく取り扱われて、
有無を言わさない銃社会の暴力が批判される。
暴力とは、人に対して強制的に痛みを与えることであり、
武器による暴力は、本来の能力を超えて実行されるために、
抑止力としての「痛み」が伴っていない。

人間の実感を超えて事態が進行してしまう様を、
マイケル・ムーアは、映画の中で描いて見せました。
なにげない日常の中に潜む、それを可能にする見えない力。
似たようなことは、今の社会にはたくさんあります。
地球温暖化も、放射能や化学物質による汚染も、
日常的に潜んでいながら、加害者には痛みがない。
痛みが無いどころか、利益を得ている者がいる。
差別や格差社会よりも深刻なのは、この無神経さです。

さまざまな利害が複雑に絡まった現在では、
日常生活で、銃で撃たれて死ぬようなことはなくても、
温暖化や化学物質による痛みは確実に広がっており、
核利用によって、ひとたび事故が起きれば大量の人が死ぬ。
僕らはそうした事態をいくら拒絶しようとしても、
無関係でいる自由さえ持たないようなのですが、
こうした状況は、本当にやむを得ないのでしょうか?

こうした深刻な社会の問題に気付いた人たちは、
事態を少しでも多くの人に知らせようと努力します。
場合によっては、やっかいな奇人変人扱いされながら、
それでも、すでに一つ上位の視点を持ってしまっていると、
もうテレビのCMさえ、狂気に繋がっているとわかる。
そこまではわかるのに、それじゃどうすればいいかが難しい。
どこかで経済の問題が絡み、人を縛り付けている。
お金は要らない、穏やかな生活が欲しいと言う人はいない。

お金がないと生きていけないと思い込まされた人々は、
自ら主体性を放棄して、進んで経済歯車の一つに身を挺し、
カタルシス的な原発の電気を、オール電化で楽しもうとする。
いつしか個人の選択が、社会を汚染し続けていって、
恐ろしい危険に気付かないまま、ある日突然暴発する。
だけどその原因は、かならず人々が作っているのです。
お金のために人を傷つけて平気な社会はもうたくさんです。

そうした悪路から逃れる道は、個々人の精神的自立であり、
地方自治における、食とエネルギーの自立を構築することです。
今最優先でやっておくべき、こうした対応を疎かにして、
中心市街地活性化や新幹線の誘致など、ちゃんちゃらおかしい!
借金してまで土建業者を儲けさせる行政は笑わせます。
やるべき事をやらない権力は、一つの暴力に等しいでしょう。
しかしまた、そうした選択をする政治家を選ぶ地域では、
自由など、誰も望んでいないのかも知れませんが・・・