意味と時間

先日「マインド・クエスト」の感想を書きましたが、
それから数日の間に、考えることがたくさんありました。
特に「本物の蛍」第四章は、忘れられないものとなり、
なかでも重要に思われたのが、意味と時間の関係だったので、
今日はこれを少し整理して書いておこうと思います。

「そもそも経験が成り立つためには、時間性が必要なのだ。」
ダン・ロイドは、最終章の最後のまとめでこう書いています。
現在をいくら断片化しようとしても、そこには入れ子式に過去がある。
同じように未来は現在を入れ子しながらしか存在できない。
従って、多くの視点から(過去を入れ子した)現在を把握すれば、
おのずと将来のおおまかなものは見えてくるはずだと考えられます。
実際に天気予報が出来るのも、ロボットが正しく動けるのも、
こうしたシミュレーションによるところが大きいでしょう。

ところが、それにもかかわらず未来がいつも不確定なのは、
大きく分けて二つの要素がありそうに思われました。
一つは、いかに多くの情報を集めても多層化しきれないのが本当で、
さらにそこに含まれる入れ子情報まで含めると、処理しきれない。
例えば人間のゲノムの情報量を多めに4ギガバイトと考えても、
これで情報化できるのは、ある一瞬の情報でしかないので、
毎秒のように違ったことを考え得る人間の意識を情報化するには、
一秒間に一回情報の収集するだけでも一分間に240ギガバイトになる。
しかもここには、入れ子式にある過去がどのように残っているのか、
必ずしも把握できていないままだと思われる節があります。

もう一つの不確定要素は、新しいものとの出会いです。
もしも完璧にクローズされた世界で、他からの要素がまったくないなら、
入れ子式に時間を持つ人間の次の行動は、比較的予測できるかも知れない。
だけどそこに新しい要素が加わると、組み合わせは無限大に広がってしまう。
これが将来予測の難しさであり、逆に言えば可能性でもあるでしょう。
元々人間は同じことの繰り返しをいやがり、新しい刺激を求める。
実はこれも時間性と密接に関わっているから面白いのですが、
現象学で「意味には必ず時間がある」のと同じように、
解釈の側からは「時間には必ず意味がある」とも言えるのです。
すなわち新しいものと出会わないと時間も意味も消えていく。
そして新しいものを求める人間には、膨大な情報が増え続けるのです。

こうして、理論的には一見情報化出来そうな「意識」は、
現実において情報量に際限がないとわかり、不可能になります。
これが、将来を予測することの困難さでもあるわけですが、
逆に言えば、現状を変えるには、新しいものに出会えばいいわけです。
どんな人にとっても、まだ知らない人や物や知識はたくさんあるはずなので、
そうしたものに貪欲でいれば、かならず自分を大きく動かすものに出会える。
人は誰でもそれを知っているから、好奇心があり、新しい情報が好きなのです。
自分を閉じられた世界の住人だと教え込むのも教育でしょうが、
その閉じられた世界さえ無限大の広がりを持つものなので、
僕らはそうした人間の可能性を信じて生きていく必要がありそうです。

整理すると言いながら、ちっとも整理しきれていませんが、(^_^;)
それでも「意味」と「時間」が、お互いに支え合っていることだけは、
こうして考えている自分の存在と同時に、認めていただければと思うのです。
たとえばバーチャルな空間が実在とどう違うかの検証などにおいて、
閉じられた世界には「予期しない新しい出会いは無い」ことからも明確ですが、
それでは「予期しない出会いまで入れ子した」仮想空間ならどうなのか?
実はここで重要なのが「主語は何か」と言う問題なのです。
「予期しない出会いまで入れ子にした制作者」にとっては実在であって、
それ以外の人にとってはやはり既成の仮想空間でしかないのです。
実在に対する仮想空間の違いは、「可能性が閉じられている」ことです。

現在の学校教育などは、ますます仮想空間化しているので、
子どもたちは、大人が作った限られた可能性の中に閉じこめられる。
だけど現実の世界は、新しい出会いに満ちた無限の可能性を持ち、
人はこの出会いを求めて時間を過ごすことで、人生の意味を獲得する。
これが人生を限りなく豊かにする正体でさえあるでしょう。
人はもともと、自由に豊かさを追求できる実在だと思うのです。