生きている限り

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           (写真は、子どもたちが学校へ行かない自然農家で生まれた喜和ちゃん♪)

昨日は男女平等を推進する市民活動のミーティングに参加して、
市の推進センターが形骸化し始めていることを憂慮しあいました。
その帰りの車の中で教育基本法の改正案が可決されたことを知り、
全身から力が抜けていくのを感じて、しばらく車を停めました。
ちょうど西の空にはスポット的な低気圧で稲光が走っていました。
これが現実で、結末はなかばわかっていたことだとも言えます。
改憲を公約にした安倍政権が躊躇できない法改正だったからです。
与党が過半数を大きく超えて、安倍政権の支持率が高いのだから、
彼らは恐れることなく戦争準備に突き進んでいくでしょう。

僕は正直言うと今も昔も教育基本法に多くを期待していません。
既存の学校教育そのものが単一価値を押し進める機関であり、
マスコミを含めて特定価値のグローバル化を推し進めている。
自由な生き方を模索して生きる選択の余地が少なすぎるからです。
したがって、むしろ学校へ行かない選択をした子どもたちを、
少しでも応援したい気持ちで、彼らと自然に付き合ってきました。
張り巡らされた社会的先入観にぶつかる特殊な時を除いては、
家族で学校へ行かない選択をした子どもたちの方が健全に見える。
だから学校教育自体にあまり多くの期待はしていなかったのです。

小森陽一さんの講演から憲法教育基本法の関係を再確認して、
この改正案が改憲をにらんだものであることはよくわかりました。
その意味において、僕は改正案に反対の態度を取りましたが、
どうせやるなら、もっと大幅に別の方向へ改正して欲しかった。
と同時に、法律が改正されようがされまいが実際の生き方として、
どう生きるかは国家の価値観に任せるわけには行かないと考える。
僕は子供の頃から、なんでも有無を言わさず教え込もうとする、
近代以降の教育そのものに大きな疑問を持っていたと思います。
だけど学校へ行かない選択を思いつかないほど洗脳されてもいた。

洗脳から抜け出すことが出来たのは、長い旅をとおしてでした。
現在のようにニートと呼ばれるような世相もありませんでしたし、
生きるために食べるために様々な仕事をしながらの旅でしたが、
旅の10年を通して、自ら人生を工夫して生きる人々に出会い、
人は誰しも事実として自由でしかないことを思い知ったのです。
すなわち今の日本にもしも現状というものがあるとするならば、
それはやはり人々の選択によるもので、これを変えたいならば、
人々の意識や生活を変えていくしかないということでしょう。
社会を変えようとする運動さえ自分がどう生きるかでしかない。

こうした選択の意味は、得たものや失ったものの多少ではない、
このようにしか生きられない自然な自分を味わうことに尽きる。
何が出来る出来ないではなく、自らの信じるところを生きる、
だから誰でも、生きている限りその途上にあると言うことです。
さあ、いかに雷鳴が響こうと、また一歩前に踏み出しましょう!。
子どもたちに残せるのは、僕らがどう生きたかってことなのです。

沖縄県知事選では、糸数さんに当選していただきたいですね♪