自立とは何か?

福沢諭吉が「国民的自主性の立場」を説いたとき、
国家と国民との関係に自立的な市民意識を考えていたらしい。
「我が国の伝統的な国民意識において何より欠けていたのは
自主的人格の精神であった」と指摘していたと、
これは丸山眞男が「福沢における秩序と人間」に書いている。

その頃の国の状態はどうだったかと言えば、
「例えば道徳法律が常に外部的権威として強行され、
一方厳格なる教法と、他方免れて恥なき意識とが並行的に存在すること。
批判的精神の積極的意味が認められぬところから、一方権力は益々閉鎖的となり、
他方批判は益々陰性乃至傍観的となること。いわゆる官尊民卑、また役人内部での
権力の下に向かっての「膨張」、上に向かっての「収縮」、事物に対する軽信。
従来の東洋盲信より西洋盲信への飛躍、等々-----」
残念ながら、この表現はそのまま現代の日本の姿にも当てはまる。

つまり明治維新によって目覚めた福沢諭吉が指摘した問題点は、
いまだに克服されることなく、漫然と引きずっているのがこの国の現状だろう。
それではどうすればこの国の市民は自立することが出来るのか?
そのためには、まず自立するとはどういう事かを知る必要があるだろう。
ここで言う自立を主体性の確立と考えるなら、いくつかの段階がある。
人類史上、人々はまず自然界の脅威に対して自立した生活ができるようになった。
次に人々の脅威となってきた政治権力からの自立を求め、国家を結成する要素として、
自由、平等、博愛といった理念が重要な要素となってくる。
ここに至って、ヨーロッパ諸国では自主的人格が登場して育っていく。
さてここまでは国内の問題であり、その次の脅威として、現代では国家規模を超え、
新たに経済の脅威から自立する必要が生じているように思われる。
すなわち自立とは、脅威を克服して自主性を保てることではないだろうか。

これがどのように可能かと考えると、ルナンの「国民とは何か」が参考になる。
彼は国家に対する国民の意味を「毎日繰り返される一般投票のようなもの」として、
個人は国家に対して、不断に「否定的独立」を維持することを説いている。
これが福沢諭吉丸山眞男が求めた自立する市民像に違いない。すなわち、
自然をコントロールする、政治をコントロールするとは個人が自立することだ。
こう考えてくれば、新たな脅威である経済からの自立をどうすべきかも見えてくる。
自然も政治も経済も、人間にとって必要不可欠なものであるからこそ、
それに隷属するのではなく、個人が自立してコントロールすることが必要なのだ。

コントロールするとは、自分が権力を奪おうとすることではない。
あくまでも、どんな権力であろうと横暴を許さない市民権の確立を維持することだ。
おざなりの説明で市民の同意を得たとする市町村合併原発イラク派兵などは、
この国には維持すべき市民権がまったく育っていないのがよくわかる。
さらに加わってきた経済の脅威に対して、どのようなスタンスが取れるのか?
今もこれからも「自主的人格」の在り方が問われていくだろう。