(10)偽神と化した「生命」

この章の考察を書く前に、池田晶子さんの本を少し読んでいたら、
言葉の意味や使い方に妥協を許さない、イリイチの態度に共通する、
真摯な人間の態度にあらためて共感を覚えて幸せな気分になりました。
現実の社会状況は学べば学ぶほど、知れば知るほど絶望を覚えるけど、
たとえ一人と言えども、その何が問題なのかを把握している人がいる、
そうした人の思いに触れることが、新しい希望を生むと言うことです。
そして今回イリイチが取り上げる言葉のプラスチック化に関しては、
同じ事を池田晶子が言っているばかりか、1970年前後に聞いた、
プラスチック・オノ・バンドや「インスタント・カーマ」を思い出す。
当時の僕はまだその言葉の意味の深さを理解してはいなかったけど、
「会話を波立たせるだけで何も意味しない」時代が始まっていたのです。

イリイチがここでもっとも重要な言葉として取り上げるのが「生命」です。
例えば自分を一つの生命とする考え方は、1960年代に始まったもので、
たった50年前にはなかった考え方を現代人は大切にしているのです。
この50年間に何が起きて、社会はどのように変わってしまったのか?
実はそれまでの人類史上で「生きる」とは科学ではなかったのであり、
生きていながら死んでいる人とか、死んでいるのに生命に与っている、
そんな人々がいるのは日常的で当たり前のことだったと言うのです。
それがいつのまにか、一つの精子卵子に着床したところから生命になる、
まことしやかに言い出されて、長い歴史的な意味を失ってしまったのです。
これにより、生命は操作可能なもの、管理可能なものと認識されてしまう。
そして科学という名のフィルターを通した、新しい信仰が始まったのです。

現代の若者たちにはすでに通じなくなった意味としての生命観では、
以前であれば「生命」はそれ自体敬意を持って扱われる人格でもあり、
かつて医者は、その苦しみを和らげてやる人格に対して責任を負っていた。
ところが現代の医者は、精子から寄生虫にいたる生命現象の管理者になって、
人格など無視した倫理委員会によって認められた生命操作をしているのです。
こうした人格無視を、彼は「不快で恥知らずな行為」と決めつけています。
一人一人の人格が無視されて一個の生命と見なされるとき、数量化が始まり、
合理的な目的によって、多くの人が虐げられたり殺されたりするからです。
科学的な処理は客観的な判断に基づくと信じ込むところが恐ろしいのです。
たとえば地球温暖化に反対する場合でさえ、人々は善きものを求める以上に、
この世界は管理可能であると思いこむところに危うさがあるようです。

そもそも「生命」とは一人の人間であったり、一人の子どもであったり、
一個の細胞であったり、一頭の熊であったり、一匹の蜂だったりするために、
根無し草の言葉だと指摘した上で、これが強力な意味を持つわけを探ります。
イリイチがそこで出会ったのは、多くの学生が好んで貼る二枚の写真でした。
一枚は青い惑星(地球)の写真であり、もう一枚は受精卵の写真でした。
それらはほぼ同じサイズの二つの円形で、一方は青みがかった円、
他方はピンク色の円だったのです。そして一人の女学生がこう言ったのです。
「私たちにとって、これは生命を理解するための入口(doorway)ですね」
イリイチはこの女学生の感覚を、宗教学者の言葉と照らし合わせることで、
「これこそ、どんな宗教も必ず持っている特別な入口、聖域に他なりません」
と分析して見せたのです。新しい宗教が世界を席巻しているのです。

生死の母胎である自然そのものが科学的に説明され、管理されるものとなり、
それまでの神の根拠を失った後には、生命さえもが管理されるものとなって、
人間の試行錯誤さえ、人工知能が取って代わることが可能だとされる社会。
ポスト・モダンと呼ばれるこのような社会では、人が世界を支配しようとする。
今や世の中の人々は、自分たちが世界に対して責任を負っていると主張する。
しかし、神を否定した人類が生命を信奉する姿は、どこか不安定で弱々しい。
「人間が限度を超えて努力し続けるなら、人間的な生き方を破壊してしまう」
イリイチはそうした閾値について繰り返し論じてきた人なのだ。そして、
新しい世界の絶望から逃れる有効な手法として、次のように述べている。
この言葉を最後にして、イリイチの「生きる意味」考証を終わりにします。

「転換を遂げる方法は一つしかありません。それは、いまこの瞬間こうして
いきいきと存在していることを深く楽しむことであり、お互いそうすることを
すすめあうこと、しかもできるだけ裸の姿でそうすることなのです」