(9)「物質(スタッフ)」の歴史性

この章だけは、他の章に比べると極端に短い。
しかも次に来る最後の第10章は、追加版になっていて、
実際のインタビューは、一旦ここで終わる形になっています。
すなわちここが本来のインタビューの最後だと言えるでしょう。
その最後にイリイチが話したのは、水にまつわる考察でした。
そこには彼が生涯を通して発言してきたことの集大成があります。
すなわち、水道の蛇口から出てくる化学処理された水は、
かつて大自然の泉から湧き出た水とは意味の違うものであること。
その事実に気がつくことによって、初めて現代が読み解ける。
そうした事を語ってインタビューの終わりにしているのです。

話の始まりは、ダラスで行われた「H2Oと水」に関して、
なぜイリイチがその講演を引き受けたかに答えたことでした。
70年前には小さな小川、ないしは泉のような水源があって、
そこから水を引けば美しい小湖が出来たはずの場所に人工湖を作る。
ただしそれを作れば多くのメキシコ人たちが居住するある地域が、
水没することになっている、そこで水を記念する会合を開くので、
イリイチに水にまつわる講演を依頼してきたと言うことでした。
「今やダラスの人々は、湖をリサイクル処理された下水の貯水池
として、噴水や滝まで作って、その液体で満たそうと計画している」
この言い回しが示す通り、彼はこの「H2O」を旧来の水と区別する。
想像力にとって、この再処理された水は本来の物質ではないと言う。

それでは、想像力にとって本来の水とはどのようなものなのか?
イリイチはそこで、ガストン・バシュラールの考えを持ち出します。
実は僕も、かつてバシュラールを好きで読んでいたことがあるので、
いくらか推し量って説明してしまうと、われわれは水というものを、
たくさんの想像力によって思い描き、多くのものを受け取っている。
シャラシャラと音を立てて流れる水の谷間や周囲の緑と共に、
あるいはさざめいたり、沸き立ったり、大音響を立てたりして、
さらには、降る雨に濡れる女性の魂の化身としてさえ受け止める。
それはもう単なる化学合成物としてのH2Oとは違うものだと捉え、
「リサイクル処理された排水が、町の中心部となるべき美観(湖)を
埋める物質になりうるとの思い込みは、おかしい」と述べたのです。

水はその流れによって、表面の汚れを洗い流すばかりではなく、
それに触れることによって魂の深部を浄化してくれる何かだった。
イリイチは、こうした深い実質を想像する人々の感覚が失われるとき、
そこで何かが死んでしまうことを、冷静に指摘しているのです。
蛇口から出てくる液体(H2O)に有機リン酸塩が残留していたり、
未知の放射性物質が含まれていたりする場合のエイズもどきの病気より、
さらに最悪と思われる「想像力の死」について語っているのです。
世界が科学的に理解され、システムとして掌握したつもりになって、
異質なものを許容する余白を失っていくことに対する警告なのでしょう。
過度のシステム統一は、個々人の価値や余力まで奪い去ってしまう、
それは危険な考え方であることを論証するものでもあるのです。