絶望の殻の内外

一夜明けると昨日のことがよく見える。
ステファン・スズキさんのお話を聞いた時に、
何かどうしようもない違和感を覚えたのが、
いったい何だったのか今朝になって見えてきた。
デンマークの人たちが経済的に裕福であるとして、
日本もそうなるにはどうしたらいいかのお話しで、
貿易によって利益を得ることを勧めておられる。

話の後で質問する機会があったから、僕は思わず、
「貿易による利益で国の経済を豊かにするのは、
それによって世界のどこかに赤字で苦しむ人を生む、
自分だけよければいいと言う態度ではないのか?」
と質問したら、ステファンさんの答えはこうだった。
「その分は海外援助によって埋め合わせればいい」
「・・・?・・・」この答えを聞いて、
ぼくはまた絶望の殻の中に戻ってしまう。
彼は世界中に貧富の差を作り出しておいて、
貧しい人には援助の手を差し伸べればいいと言う。

これじゃあ世界中の抑圧と管理はなくならない。
だけどこれが先進国の良心の正体なのだろう。
まずは人を押しのけてでも勝ち組みになっておいて、
勝ってから弱者に慈悲の手を差し伸べようと言うのだ。
せっかく石井吉徳さんに目から鱗を取ってもらっても、
僕にとってスズキさんの話しはもう一度鱗を付けるものだ。
再び絶望の殻の中に閉じこもろうとしていたら、
石黒さんの発言がもう一度僕を揺り動かした。
そして石黒完二さんの短い講演を聴いた。

それはもちろん自然農に関する話だった。
彼が電気もガスもない生活をしていることや、
顔面髭だらけの風采から仙人と呼ぶ人が多いけど、
彼の生活を知っていると、その表現は当たらない。
むしろ、市民活動に熱心な古くて新しい良心の人だ。
ただ漠然と便利なものを受け入れることに、
直感的な抵抗感を持っているナチュラルな人でもある。
その石黒さんと講演後に話をしているうちに、
僕はまたゆるゆると絶望の殻から這い出して口を開く。

駅へ向かう道すがらの話の中で確認したことは、
今の人々が思いこんでいる常識の根の深さと、
その常識が孕んでいる問題のさらなるスケールだ。
うっかり足を踏み込むと絶望するしかないような事が、
その絶望を知ってなお自分を生きようとする人の、
存在を知り、生き方を学ぶことによって救われる。
今朝は寝起きの頭の中で、そんなことを考えた。
これは僕にとって、自然農から学んだことだ。
「生き方としての自然農」が僕を救う。