(8)文字の文化からコンピューターの文化へ

イリイチによると、人類には二度目の分水嶺が迫っている。
一度目は、人々が話し言葉で情報のやりとりをしていた時期に、
文字で書き留めるアルファベット化によって始まったもので、
科学的であるとか理論的であるとかは、この時期の産物になる。
それまで声音で使われた話し言葉は、連想的な理解だったのに、
アルファベット化されて書き留められた知識としての言葉は、
人々の自由な判断を規制して、意味の固定概念化が進んでいく。
それは、プラトンが知っていた意味における想起ではなく、
死んだ鳥たちが保管された貯蔵庫のような記憶として区別した。
ここに、文字を書くテクノロジーによる抽象的思考が成立する。

文字テクノロジーによる生産の合理化が飛躍的に進んでくると、
本来は人間の活動を手助けするために生まれた道具たちが、
やがて逆に、人間の生活を規制して管理するようになってくる。
道具を効率よく維持するために、人間が道具に合わせて生きる。
さらには、道具を使うスペシャリストが次々に認定されて、
そうした道具を使えない人は、社会的な差別を受けるようになる。
人々を快適にするはずの医療制度も、子細な事に関わりすぎると、
そうしたニーズばかりが増えてサービスが追いつかなくなり、
やがては、不快な思いをする人々の方が多くなってしまう。
イリイチはこれを、分水嶺を超えた逆現象と捉えている。
快適を提供するテクノロジーも、分水嶺を超えると不快になるが、
この現象は本来防ぐことの出来る選択肢の問題だと考えていた。

イリイチが活動を始めた1960年代はこれで説明が付いた。
そこで学校や病院、交通、グローバル経済にまで疑問を投げかけ、
コンヴィヴィアルな道具の概念で、社会に軌道修正を提案する。
「かつて存在したけれども、今はもはや存在しないもの」を訪ね、
出来るだけ正確にそうしたなじみのない世界に身を置くことで、
再び現在に戻ったときに、「こんにちの世界に身を置く運命を
否定するのではなく、むしろしっかりと受け止めて欲しい。」
イリイチはそう考えて、多くの活動をしてきたのですが、さらに
このあと、社会にはもっと大きな二度目の分水嶺が迫ってきました。
それがコンピューター化であり、社会のシステム化というものです。
膨大な情報とプログラム、コミュニケートして企画化された社会、
あらゆるものがバランスよく浮かんだサイバネテックスの夢!

こうした新しい世界に溺れることなく、状況を把握するためには、
なおもテクストの文字文化が存在することが条件になってきます。
サイバネテックスによってモデル化された世界が危険かどうかは、
文字文化に身を置く人の存在が不可欠で、それがなくなれば、
破滅的な危険さえも、人々は暗黙に受け入れるしかなくなるのです。
言い換えれば、ただ一つの価値観で見てしまうと見えないことが、
非対称でありながら根本的に異なる二つの領域から眺めれば見える。
そうした視座の大切さを、イリイチは訴え続けているのです。
「思索というのは、現実を一面的にしか眺められなくなった時点で、
終わりを迎えるのです。」とのイリイチ発言はこのことを指します。
彼の一番の功績は、この視座の持ち方を実践して見せたことでしょう。

世界を一つの価値観で統一することの危険性を認識したことで、
イリイチは次々に、社会の常識に疑いを持つ方法を実践しました。
男女平等とジェンダーレスの違いや、人を不幸にする医療システム、
なぜこれだけ便利になった社会で人が幸せになれないのかを、
分水嶺の考え方で把握していく手法はすばらしいものがあります。
かつてスペイン半島に様々な言語があったのを一つに統合したのは、
それによって人々を管理し易くするためであったと同じように、
現在世界中の文化をマネー経済で統一しようとするのは、明らかに、
お金によって世界を管理しようとする思惑があるからなのです。
人々が真に平等なら、異質なものこそ平等に扱われるべきなのです。