(7)キリスト教の堕落

ギリシャ時代、需要と供給に合わせて値段を変える商売を、
アリストテレスは、慎みのない徳のない行為として憂えていた。
それ以来二千年の間、交易と市場の売り買いは慎重に分けられ、
それぞれの文化内での市場は注意深く規制、制限されてきた。
それがホモ・エコノミクスになったのは、最近250年間のこと。
カール・ポランニーからそう学んだイリイチは、歴史考察の中で、
以前ならば不道徳とされた商売がどうして市民権を得たか?
そこにある過去との断絶と分水嶺の意味について考えを進めます。
そしてあらゆるものがお金で買えると思いこませる固定観念が、
長い歴史の中でゆっくりと形成された人工的なものと見抜く。

自分たちが自明のことだと思っている社会の常識に対して、
深く疑いの目を向けるところから、イリイチの考察は進んでいく。
教育や医療に対する批判も、それによって失われたものを思いやり、
何かを手に入れたことは、何かを失ったことにすぎないと指摘する。
その大きな事例として、キリスト教の諸概念の変化を見ていきます。
なぜなら、キリスト教において過去と断絶した諸概念の変化こそ、
現代西欧社会の価値概念に深く関わっていると考えるからです。
ここでは、彼がもともと牧師であったことも重要な要素でしょう。
キリスト教の福音によってもたらされた西欧社会の諸概念は、
ある分水嶺を超えたところで倒錯を蒙るようになったと分析する。
「最善のものの堕落は最悪である」とするラテン語の格言どおり、
教会の教えは残酷でぞっとする邪悪な規範的所概念になったと。

ここからしばらく、イリイチは初期のキリスト教徒が何を求めたか、
そして現代の社会変革がどのようにもたらされたかを分析します。
この部分は、日本においてはキリスト教と切り離して考えた方が、
すなわち現代化する以前の日本的価値の諸概念とは何だったのか、
そうした観点からも社会的変革を考える必要もあるでしょう。
ここではそうした観点が必要なことだけを理解して先へ進むと、
次に、イリイチを理解する上で大きな論点が登場してきます。
それは例えば、ケアという概念にみる世界との関与の仕方です。
先進国で、あらゆるものを商品化する諸概念が行き着くところでは、
盲目であることも空腹であることもケアされるニーズとして捉え、
それを数量的に管理されるべきものとして取り込まれていく。
ここに人間を魂から切り離す大きな仕組みが隠されているとする。

こんにち世界中で起きている災害被災者、戦争被災者、飢餓住民に、
救いの手を差し伸べようとする情報を目にしない日はありません。
そして実際に多くのボランティア団体やNGOが出掛けていって、
それらの逼迫した人たちを助ける活動をしているのも事実です。
ところがイリイチは、そうした活動には協力しようとはしない。
一般的に考えるならば、困っている人に手を差し出さないのは、
キリスト教のみならず、人間として考えても冷たいことに思われる。
イリイチはなぜそうした社会活動を否定しようとするのか?
そこに彼の深い絶望と妥協しない生き方の選択があるようです。
「わたしにその意思がないのは、それが不可能と考えるからです。
どうして気にかけているふりをしなければならないのでしょう?」

ここには僕自身が疑問に思っていた、社会との関わりに対する、
ひとつの手応えのある答えが提示されているのです。それは、
目の前の人を抱きしめるのではない、情報によってケアするのは、
もっと大切なものを失っていくことではないかという恐れです。
イリイチは遠方の人をケアしない理由として3点挙げています。
(1)愛とは本来どういうものかを思い出すのが困難になる。
(2)このドアのすぐ外で待っている人を愛せなくなります。
(3)来週一週間休みを取って行く環境破壊の抗議が出来なくなる。
そんなに難しいことを言っているわけではありません。誰であれ、
何か一つのことをすれば、それによって出来なくなることがある。
イリイチは常に、その出来なくなることを恐れているのです。