(6)ジェンダーとセックス

イリイチは道具の研究を進める中で、重大な事実に気付きます。
それはどんな原始的な文化においても、それぞれの社会において、
男性が手にしてよい道具と女性が手にする道具とに境界線があり、
さらに日々の暮らしや場所にも男女の境界線があるってことでした。
伝統的な社会や前資本主義的な社会では、男のでも女のでもない、
抽象的な仕事というものについて語ることは不可能だったのです。
人類学、歴史人類学、法律、歴史に関する何百もの書物を調べて、
近代化前の社会には、男でも女でもない人間を語ったものはない、
そもそも習慣とは、男の習慣か女の習慣のいずれかであったのです。
男女は侵さざるべき二つの領域に固定して社会に存在したのです。

そしてジェンダーを失いながら産業化が進んだことに目を向けると、
男女間に賃金格差が生じたのは、一元化、セックス化によると考える、
この主張がシャドーワークと密接に繋がっていることは明らかです。
ところがこの考えは、しばらく社会に受け入れられませんでした。
当時は女性解放運動が盛んな時期で、男女平等だけが叫ばれたのです。
しかしフェミニズム運動で、女性の社会的進出や地位向上はしても、
同時に女性は、賃金格差の激しい差別の中に巻き込まれていった。
なぜなら、ジェンダーによって守られていた領域を失ったからです。
その意味で、フェミニズム運動は大きな誤りを犯したかもしれない。
父権性、家父長制による抑圧や差別からの開放を目指しながら、
女性でも男性でもない人間世界の差別を受け入れてしまったのです。

ジェンダーに対するイリイチの指摘はなぜ認められにくいのか?
それは多くの人が、産業化や一元化を平等だと信じ込んでいるからで、
この強靱な社会通念から抜け出さないと、本当の姿は見えてこない。
そこで彼は、さらに大きな視点でこの事実を検証するようになります。
現代人が疑いを持たない「二つのセックスに分けられる人間」さえ、
社会の産業化と同時に生まれてきた新しい概念でしかないのであり、
昔は抽象的な人間などおらず、男であるか女であるかどちらかだった。
イリイチはこの失われたジェンダーが何をもたらしたかを考えます。
そしてジェンダー喪失の場所では、女性が屈辱的な扱いを受けている、
この事実に行き当たったとき、経済植民地化と同じ姿が見えたのです。
近代科学や工業技術の発達による時代変化でもたらされた亀裂の中で、
もっとも根深くラディカルなものが、ジェンダー消滅だというのです。

ここで「日本語」の特徴に馴染み深い指摘があるので見てみると、
世界のどの言語においても、「わたし I 」にはジェンダーがない。
なぜ自分が主語となる場合にジェンダーがないかと考えてみれば、
文字以前の声の文化から存在していた言語にとって、話し手の私とは、
話す時点で、その声がジェンダー性を備えていたからだというのです。
そうしてみると昔の日本語に主語がなかったのもわかる気がします。
言葉そのものや言い回しや状況に多様な意味を含ませたことによって、
今日では長々と説明しないと通じなくなった世界を、文化共有していた。
つまり僕らは、知らずに多くのものを失った世界に暮らしていたのです。
同じように、例えばアルファベットの順番でものごとを整理することは、
意味の繋がりがないあらゆるものを同等に並べてしまうことによって、
以前には意味の繋がりで並んでいた認識を失ってしまっているのです。

こうしてイリイチが指摘したのは、今の時代が喪失したものでした。
過去のことを持ち出して話しても、過去を理想とは考えていないし、
現在を是認しているわけでもない、ただ真実を見ようとしている。
と言っても、「価値」よりも「善」をもって世界を見ようとすれば、
今の社会の価値観よりは古い社会の世界観に親近感を持つでしょう。
古い社会がなぜ貨幣経済に抵抗したかといえば、交換可能性によって、
今まで守られていた相互依存の関係性が失われるのを恐れたからです。
「そして今やわれわれは、経済的中性人のゲットーに囚われている」
「欲望は、それがもはや自己の空想ではなく、他者のニーズの表現の
イミテーションとなるとき、模倣的な欲望になる」と指摘するのです。