(5)稀少性と労働

この章ではイリイチを理解する上で特に重要な概念が出てくる。
それは現代人が盲信している「価値」に代わる「善」の概念です。
これをあまり短絡的にわかったような気分になると間違えるので、
有価値なこととはどんなことかを検証するために賃金を持ち出す。
そしてお金になること「有給」を一つの価値基準とした場合に、
実際の生活には有給ではない無給の労働があることを指摘する。
まずは賃金労働が始まった150年前からの変化を見ると、
それまで日常生活の姿であった働きの一部が賃金労働となって、
同時に無給の労働、あるいはランクの低い賃金労働が登場する。
まずここに現代的な差別の温床があることが確認できるでしょう。

ここに登場した有給労働によって生産される商品と呼ばれるものは、
実際にそれが役に立つためには、それを運搬したり、使用したり、
適切に管理される必要があるわけですが、それは無給ですまされる。
たとえば1920年代からアメリカで建てられた新築家屋では、
トイレやシャワーが一般的なことになり水汲みの仕事はなくなった。
その代わりに、バスタブの掃除や、トイレやバスルームの掃除など、
新たな仕事が増えており、洗濯機を買うお金も必要になった。
さらにこの洗濯機を買ったり、ハウスメンテナンスをすることで、
以前の水汲みよりも多くの仕事をこなさなくてはならなくなった。
こうした無給のサポートがあって初めて賃金労働は成り立っていた。
この無給の貢献活動を「シャドウ・ワーク」と名付けて研究する。

経済学者たちはこのシャドウ・ワークをインフォーマル経済として、
表経済に取り込もうとするわけですが、ここに植民地化が生じる。
価値ないものと価値あるもの、さらに高い価値があるものが選ばれ、
現代人の多くが信じ込んでいる価値基準での差別化や序列化が生じる。
しかしこうした概念は高々この120年の価値観でしかないのです。
統一された基準であらゆるものを序列化する「価値」とは何か?
イリイチはそこで慎重に表現を選び、「稀少性の領域」と言う。
「価値が善 the good にとってかわったとき、われわれの思考も
想念も時間も資源と化した。価値という言葉はそうした意識の移行を
反映して、その言葉を使用する人間は稀少性の領域に取り込まれる」
価値でもって物事を見ると、本来の人間の姿が見失われると説明する。

イリイチは何度も、150年前の世界に身を戻しながら考えを進め、
自分の祖父の体験としても、思考が根本的に変化したことを強調する。
たとえば祖父の時代には、そこにあるものがすべてだったから、
マイクを持ってインタビューされても答えようとはしなかった。
すべての判断は、good か bad であって、そこに価値の序列はない。
ところが現代では実物よりも先に見たり聞いたりする学習経験があり、
こどもたちは何を見てもそれを序列化して価値判断をしてしまう。
こうした(現代のものによって作られた現代人のものの見方)自体に、
彼は深い関心をもつとともに、事の深刻さを認識していったようです。
善とは存在そのものの肯定だったのに、価値に関する議論はすべて、
嘆かわしいほど主観的で、自然から切り離されていると断言する。

現代社会では、人々の生活や欲求をニーズや要求値であらわして、
教育に対するニーズとか、医療に対するニーズとか言うわけですが、
そうしたニーズとは技術によって任意に設定できるものでしかない。
つまり個人は常に適度なニーズを持つ欠乏者として存在しており、
自宅から歩いて行くには遠すぎる所があれば、そこへ行くために、
車を必要としている人間としてカウントされてしまうのです。
世界中の伝統的見解においては、人間に必要なものは変更がきかず、
ただ受け入れるしかないので、その欲望を統制することが大切だった。
それがあらゆる共同体や個人の倫理的・道徳的務めだったと分析する。
こうしてイリイチは身の回り以外の人に干渉することを拒むのです。