(4)医療と身体の歴史

少なくとも今の日本で、誰もが等しく認める価値と言えば、
健康ブームと呼ばれるとおり、心身の健康に関するものでしょう。
子どもからお年寄りまで、健康のために多大な努力を惜しまない。
だけどこの健康に対する概念は昔からあったわけではなさそうです。
まず1930年代から、患者は本人の意思と関係なく作られ始めた。
病人を決める権限を持った国家資格者たちが、テキストに従って、
誰が病気で誰が健康かを勝手に決めていいことになったわけです。
自分が健康であるかないかは、自分では決められなくなりました。
その後1960年代に、医療現場の内部で改革運動が起こって、
患者の症状に対応するのではなく、患者その人を治療し始める。

一見望ましく思えるこの変化には、思わぬ落とし穴がありました。
医者は人々に対して、君たちは病気だから矯正する必要がある、
と告げることによって、当人のかけがえのなさをむしばんでいく。
これがイリイチの「脱病院化社会」が指摘した医療化の問題でした。
発表当時に指摘されていたのは、苦痛や病気や障害や死に対して、
どのように対応するかの人格的な要素が見失われるということ。
その後さらに指摘されたのは、高度に資本主義化した国において、
人々は医原的な身体を獲得して、医師の説明通りに自分を知覚する。
人間が自立性のないシステム化した存在になってきたと見るのです。
苦しんでいる人に対して「ケア」の「ニーズ」があるとする考えは、
人間の人格を無視して商品化していることだと見抜いたのです。

イリイチは脱病院化と言いながら、病院のことだけではなく、
多くの人がこうした管理を受け入れていくのはどうしてなのかと、
その、誰もが信じて疑わない健康管理意識の源を探っていきます。
そして見つけたのが、身体に関する固定概念の歴史的変化でした。
例によってイリイチは歴史的地平から現代を眺めるのですが、
18世紀の医師が残した170人の女性の記録を検証した結果、
これらは時代に特有なもので、現代女性には感覚が再現できない。
同じように十字架に掛かったキリスト像の身体性においても、
12世紀までのキリスト像は神聖な意味であって死体ではない。
その時代までの聖遺物は聖なる香りがしていたものだったのに、
やがて教会が管理してお墨付きを与えるものが聖遺物だと変化する。

こうした事例を持ち出しながらイリイチが説明したかったのは、
我々現代人が思いこんでいる身体感覚は、時代性を持つものであり、
健康に対する意識も時代の固定観念に過ぎないということでしょう。
聖遺物を教会が管理するようになり、聖なる香りが失われたように、
健康を病院が管理するようになって、それまであった何かが失われた。
医療機関は健康に対する主要な脅威となっている」とは、
こうした考察に基づいて1974年に書かれたフレーズでした。
ところがそれ以降にも身体感覚は大きく変化を続けて今日にいたり、
人々はコンピューターモデルのシステムとして自分を認識するのです。
システムが障害なく動いていれば健康であり、障害があれば取り除く。
コンピューターを使わない人でさえ、このような考え方をするのです。
ここに至って、言葉の意味にさえ観念が失われてしまったのです。

「言葉はいつのまにか粘土のような可朔的な元素のように用いられ、
それらは何にでもフィットするのです」とイリイチは表現している。
言葉による情報でニーズに従ったケアをすることにも危惧を覚え、
友人の言葉を引用して「ケアとは愛を装う仮面である」とまで言う。
そして彼は、諸々の固定概念と向き合うときには距離を置きはじめる。
たとえばイラクで毒ガスが使われるというような話題に対しては、
黙示録的な放縦さで話すことを強い自制心をもって慎むべきだと言う。
それはどこか絶望的でありながら、イリイチはあきらめてはいない。
闇の中を生きるために自分が小さな火になることを恐れてはいけない、
「火がつくかどうか気にせず、なすべきはただ息を吹きかけることだ」
これがイリイチの生きるスタンスなのだと受け取れる。