(3)「道具」の哲学を求めて

イリイチはやがて「コンヴィヴィアリティのための道具」で、
人が使う道具には、その道具が持っている意味があると言い出します。
この道具に関する考察を進める中で、日本にも注目するのですが、
不幸なことに、日本ではこの意味が正しく広まりませんでした。
その理由は、彼が教会の存在意義に依拠して話したからかもしれません。
「道具という観念と秘蹟という観念の間にはある関係性が存在する」
と始まるイリイチの説明では、ほとんどの日本人には通じない。
これを自明の例えとして新しい地平を切り開こうとするのだから、
日本人がコンヴィヴィアリティを理解するのは困難の極みだった筈です。
ところがこの考え方こそ、実は日本の伝統にあったものなのです。

イリイチはまず、道具に対する便利さや生産性の信仰に対して、
ある一定程度の規模や強度を超えて発達すると、むしろ害になるとする、
分水嶺的な考え方を身に付けて、道具の意味を問い直していきます。
それは一部の人に特権を与えながら、より多くの人には害をもたらす、
たとえば化学的農業がもたらす副次的な有害効果として説明します。
一定の期間、一定の区画で、一定の労働者が化学的農業で作物を作ると、
他より多くの作物を生産しながらも、土地を枯らし、地球を汚染する。
それは、本来道具に望んでいた効果を超えて被る被害なのです。
「一定の強度を超えて発達する場合、道具はいかに不可避的に手段から
目的へと転じてしまい、目的達成を阻むものになるか」と言うことです。
しかも彼は、この問題を言葉の使われ方の問題として取り組みます。

「コンヴィヴィアリティのための道具」で言う道具とは広い意味で、
たとえば医療なども一つの道具として捉えながら考えるわけです。
すると人々の望みや経験を、一定程度を超えて医療の対象として扱うと、
医療はそれが癒しうる以上の、不幸や苦痛や無力さを生みだしてしまう。
そこでイリイチは、こうした道具が社会に対して働きかけることを、
社会が固定観念として受け入れるのはなぜか、と関心をもち分析します。
そして、主要な道具の諸体系でもたらされるもっとも重要な効果とは、
現実に対するわれわれの見方をかたちづくることだ、と見抜くのです。
「エネルギーと公正」によって彼は「エネルギー危機は幻想だ」と言う。
この意味は現在様々に曲解されてもいますが、彼が言おうとしたのは、
そのように計算される世界とは一つの固定観念の世界でしかない事実です。

この説明は容易なことではなかったようで、「エネルギーと公正」出版後、
イリイチ自身が何度も、自分の概念を修正しなくてはなりませんでした。
まず人間のエネルギー効率を計算しようとしたことを愚かだったとし、
次いで「移動」の近代的な概念に対する無理解への反省として出てきます。
すなわち、人間が歩くのは、なにも移動するために歩くわけではない、
人間の脚はなにも移動手段としてあるわけではないという気付きです。
そこで、現代テクノロジーが必然的に語りかけている事への研究が始まる。
人間はデカルト的な座標軸を移動するシステムではないとの自覚から、
現代のグローバル経済文化の外側に身を置いて考えることを始めます。
一つには歴史上の産業化しない12世紀に帰って現代を見る手法であり、
もうひとつがラテンアメリカやアジアの文化から欧米を見直すことでした。

ここでイリイチは中国、日本、インドの文化に関心をもちますが、
言語に重要な意味を見る彼は、新たに中国語や日本語を学ぶのをあきらめ、
自分が馴染みのある英語の通じるインドでの研究を始めるのです。
日本には匠のように、歴史上独特の物文化が栄えていた時期があるので、
もしも彼が日本文化を研究していたら、新しい発見があったかもしれない。
今そう思うのは僕ばかりではない筈なのに、日本では広まりませんでした。
彼は中国やインドでの経験から、同じ言語であっても違う背景があれば、
まったく違う世界を描き出すことに気付き、それを一つの突破口にします。
同時にある種の言葉を語るときに、非常な注意をするようになる。
たとえばジェノサイトについて語ると、それが一つの論点となってしまう、
そうした社会のシステム化に非常に心を痛めるようになるのです。