「生きる意味」・序論Ⅲ

さて今回はケイリーが書いた序論の最後です。
彼が書いたジェンダー以降のイリイチ発言をみると、
大きな流れとして歴史の再検証が重要になり、
二つの分水嶺の話が全体を貫く鍵になっています。
いわば最初の分水嶺が拡大のメリットをもたらし、
それが過剰に進むと新たな分水嶺に至るのですが、
この分水嶺を超えるとデメリットが増える言うのです。

その歴史認識として最初に言及されるのは、
(文字によってものを考える精神)の登場です。
古代文明は言葉の伝承によって成り立ちましたが、
12世紀に文字を書物として出現させたことにより、
それまでの声の文化は急速に変貌していったのです。
声の文化は留まることなくたえず過ぎ去っていたのに、
テキスト文化はイメージの固定をもたらしたのです。
これが文字によってものを考える始まりでした。
こうしてもたらされた考え方の革命が現代に至って、
新たにサイバネティックスの夢が始まったと捉えます。
人や物ではなく、システムが情報を発信する世界です。

その結果もたらされるのは実体のない情報の世界です。
見たこともない地球のイメージさえ情報として持ちながら、
日常的に使う言葉さえ意味「感覚」が洗い流されて、
人間としての(五感の喪失)が始まってしまったのです。
イリイチは、「日々管理された生活を経験することによって、
擬制的な物質から成る世界を自明のものと考えるようになる」
として、言葉の脱身体化を一つの研究テーマとしました。
ガストン・バシュラールの「水と夢」に依拠しながら、
かつて目に見えないものを我々の感覚に受容可能なものとした、
水の役割が、管理の強度が一定の程度を越えたところで、
自然との結びつきが断ち切られてしまったのだと説明する。

こうして自然との身体的な結びつきを失った人間は、
自らが情報社会システムの断片となったことによって、
自分の健康さえ自分では管理できない状態に陥ってしまった。
イリイチはそれを(「責任」と「生命」への批判)として、
その生涯で最後の課題に取り組んでいくわけです。
倫理的な責任は合法性を獲得するための形式的な手段となった、
もはや「責任」は放棄するしかないとまで言い切ります。
「無責任」ではなく「放棄」を選択することによって、
擬制的な諸物に感覚的実在の外観を与える有害な諸概念を、
一掃することの大切さを訴えていたのです。
核兵器や産業廃棄物は問題なのではなく悪として捉え、
悪を理解して管理することは不可能だから放棄すべきだとする。

このように辿り着いたイリイチ最後の指導は、
まさしく仏教思想の極地でもある「放棄」だったわけです。
これは今の僕にとって単なる偶然とは思われません。
東京から井波に来てようやく落ち着いた2000年の暮れに、
自分にとっての大切な言葉を探したことがありました。
そのとき選んだのが、精霊、生命、過剰、変容、自然ときて、
最後に「放下」、そして「生きる」が浮かんだのです。
http://www.geocities.jp/isop805/isobe/00-meiso.html
今この文章を書きながら、その時のことを思い出して、
目に見えない大きな繋がりを感じないではいられません。