地域通貨「まみな券」に学んだこと!

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僕らが「まみあな」で挑戦した地域通貨「まみな券」の発想には、
「WANT」と「GIVE」をコミュニケーションとして繋げたい気持ちがありました。
会員みんなが、自分が「WANT」するものと「GIVE」出来るものを出しあって、
それを直接交換出来たらコミュニケーションに繋がると考えたわけです。
したがって「まみな券」は時間や通貨と言った数量には還元されません。

それでも優秀な人ばかりが仕事を請け負っては、結局貧富の差は生まれるし、
仕事が出来ない人は地域通貨を使っても貧しい人になるじゃないか?
と言う疑問が出てくるわけです。それが数量化の罠というものです。
そこで罠に落ちずに「存在の価値」を考えると、見えてくる関係があります。
それは「GIVE」されるものを受け取る側の喜びと同じように、
「WANT」してもらった与える側にも大きな喜びがあると言うことです。
何かしてもらった人ばかりではなく、与えた人も同じように嬉しいのです。
どんな喜びも、相手がいてくれて初めて成り立つ、当然の話です。

市場原理と同じで、「GIVE」に価値があるのは「WANT」の存在による。
誰かの「WANT」に根差さない「GIVE」には、本当の価値など無いのです。
その上で市場原理と違うのは、数量化でくくられる物ではない言うことです。
ここに地域通貨がコミュニケーションである根本的な理由があります。
たとえばどんなに愛情を注ぎたくても、受け止めてもらえないと存在しない、
受け止める側の能力を得て、初めて愛情はコミュニケーションとなって、
どちらが一方的な「GIVE」でも「WANT」でもなく、愛し合うことが出来る。
「自分に出来ないことを人にやってもらう」こと自体が価値でもあるのです。

男と女の愛情は、その異質なものを実感する入口のようなものでしょう。
等価交換のように相対化するのではない、異質交換の価値観なんです。
人は誰でも愛し合うことの素晴らしさを知れば、どんな苦労も喜びになる。
しかもこの世界には同じ人が二人といないほど多様性に富んでいる。
その多様性こそが僕らの豊かさの保証であり、命にとっての喜びだと思う。
だけど僕らには、ねたみや憎しみ、猜疑心や疎外感を持つ存在なので、
少しでもそうならないような社会的なシステム作りをするわけです。
まみあなの「まみな券」は、そうした意味で数量化されないものでした。