60年の想い・・・

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体調を崩して伏せっていると、様々なことを考えます。
そしてやっぱり行き着くのは、人間とは何なのか?
人生はどう生きれば良いか、って事でしかありません。
僕が初めて人生や死と向き合ったのは、小学生のときで、
同級生の子が、川で溺れ死んだときが最初でした。

大量の水に溺れて死ぬ、ってことをどう受け止めるか、
恐怖が先立つばかりで、水に近づくのが怖かった。
暗闇も怖くて臆病なくせに、自尊心だけは大きかったから、
屁理屈だけはうまく、まったく行動が伴わないのです。
家族からは、天邪鬼の内弁慶と言われていた記憶があるし、
外面(そとづら)は良いのに、家族には我が儘一杯。

小学校2年か3年までは、一人で夜のトイレへ行けず、
3つ違いの姉を起こして、付いていってもらっていたのです。
近所の銭湯へ行く途中にある、3メートルほどの路地の、
暗がりの前を通るのも怖くて、走り抜けてもいた。
それが突然怖くなくなったのは、異性への好奇心でした。

好きな女の子が出来て、その子のことを考えていると、
暗闇も怖くなくなるし、むしろ闇に紛れて近づきたくなる。
水の恐怖も何とか克服したくて、夏の間は毎日プールへ通い、
潜りや背浮きから、少しずつ泳げるようになっていった。
中学の頃には仲間より早く泳げたし、暗闇は恐れるどころか、
夜中に学校に忍び込んで、屋根に登ったりしたのです。

そしてまだ街路灯も少ない、田舎町の夜空を見上げて、
この世界の果てには何があるのか、どうなっているのかを、
自分の目で知りたい、と思うようになっていったのです。
学校には関係ないような、心理学や哲学の本を読んで、
自分だけの世界に没頭する事を覚えたのも、この頃からです。

ちょうど50年前に、地元の高校生となってから、
世界は具体的に広がり、人生を考えるような恋もしました。
その恋は実らずに、あれから何度の恋をしたのだろう。
幾度かの真剣な恋や、性を弄ぶような恋も経験して、
自分の生き方も、人に何と言われようと曲げなくなった。
やっぱり昔から、頑固な変わり者だったのかも知れません。

どう生きるのかを、いくら考えてみても正解はないし、
毎日会社通いをするような生活を、したいとは思えなかった。
原稿を書いてみたり、好きな旅をしてみたりしながらも、
なんとか生きていく術を身につけて、恋もしていた。
もしかすると恋は、孤独を恐れた隠れ場だったかも知れない。

過去を振り返らずに生きてきたつもりが、60年過ぎて、
姫の成長する姿を見る内に、ときどき時が戻っていく。
ふと懐かしい手紙を見つけたりすると、そのときの自分が、
どんな選択をしたのか、身の竦むような恥ずかしい思いがする。
もしもあのとき・・・と考えても、時はもう戻らないし、
すべてを超えて今、僕はここにこうしているんだってことだ。

僕と関わったすべての人は、幸せになっただろうか?
愚かな僕なんかと関わって、不幸になった人はいないか?
20年前、30年前の僕にアドバイスしたいことは多いけど、
20年前30年前の僕は、決してアドバイスを聞かないだろう。
関わってくれた人たちに、ただただ感謝するしかない。