履歴書が書けない? 20代

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大学に入ってからの僕は、放送研究会で番組を作り、
DJのアルバイトをして、NHKでも仕事を見つけました。
放送番組で行き詰まると、小説を書いて投稿してみたり、
いろいろやりながら、やがて旅の生活を始めます。
北海道、能登半島、房総半島、伊豆半島、などを回って、
いくつかの理由で、沖縄の石垣島に1年半ほど住み着きます。

そこで珊瑚礁の海の魅力を知って、潜るようになり、
東京に戻っては、またアルバイト仕事でお金を貯める。
お金が貯まると旅に出て、旅先でも住み込み仕事などして、
20代のほとんどは、旅の暮らしだったと言っていい。
その間に暮らした場所も、那須、蓼科、那覇、中野、世田谷、
ロサンゼルス、サンフランシスコ、メリダなど多くの場所です。

NHKの他に、結婚式場や印刷会社でも働くようになって、
この状態が、34歳で就職するまで続いていました。
そして履歴書を書こうとすると、何年にどこで何をしていたか、
分からなくなって、適当に書いて出したのを覚えています。
社長に誘われて入社したし、ちょうどバブルに向かう時期で、
細かいことをうるさく言う人も、いなかったと思います。

今思い出そうとしても、20代の時期はまったく不明で、
どこが現実のことか想像のことか、よく分からないこともある。
蓼科観光開発の仕事をしていたときに、突然電話があって、
その人はアメリカで知り合った人ですが、ロタ島開発に誘われた。
あるいはちょうど、新日本文学の学校に参加して書いた原稿に、
スポンサーが現れて、初めて一冊の本にもなりました。

原発のことに関心を持つようになったのも、この時期だし、
よく女性と遊んだのもこの時期で、エピソードはたくさんある。
まさに夢のような時期で、何が現実だったのかよく分からず、
思い出せることのすべてが現実なら、映画よりも刺激的だ。
しけ込んだアパートに親が訪ねてきて、押し入れに隠れたこと、
大学のマドンナと朝まで遊んで、女子寮の塀越えを手伝った。

バイトで知り合った女子高生が、内視鏡を持ってやってきて、
子宮の中を見ないかと誘われたり、新宿のマンションに屯したり。
新宿の一等地にあるマンションに、名門女子校の生徒が集まり、
僕は占い師として、みんなの相談に乗っていたのです。
その中には、銀座のホステスになった女性や、タイへ渡って、
日本語学校を開いた女性など、多彩な人が何人もいました。

ロスのアパートでは、空手を習う男に押し入られて、
飛び蹴りを食らって前歯が折れ、命からがら逃げ出した。
口の中に溜った血を道路にはき出し、黒人にからかわれたり、
それでも匿ってくれる女性がいて、しばらくはそこに逗留した。
横浜の暴力団の会計をしていた人と知り合い、親しくしたり、
勝島では仕事がらみで、癌で死を見つめる女性とも付き合った。

この時期のことは、どれだけ書いても尽きることはないし、
40年後の今では、事実を確かめる術もないのです。
好き勝手はもういいかな、と思ってサラリーマンになって、
だけど一度知った自由の味は、忘れられるものではありません。
バブル経済が終わって、サラリーマンをやめたときには、
再び自由な暮らしに戻り、環境・平和活動なども始めました。

写真は20代の半ばで、隣にいるのは鬼沢くんと言って、
写した場所は、沖縄県竹富島の「民芸喫茶マキ」のカウンター。
ここで何ヶ月間か、アルバイトをさせてもらったのですが、
鬼沢くんは典型的な愛すべき悪友で、一緒にあちこち旅をした。
彼がいなければ、今の僕もないほど世話にもなっていますが、
お互いに違う道を進んで、今では音信も途絶えています。