少女拷問致死事件

イメージ 1

小学4年だった、栗原心愛(みあ)さんの死は、
事件が起きた1月24日から、2週間が過ぎた今でも、
多くの議論が沸騰し、悲しみに包まれた事件です。
栗原勇一郎容疑者はもちろん、非難されて当然ですが、
学校の対応も、児童相談所の対応も非難されて、
ついには心愛さんを守れなかった、母親も逮捕された。

両親も学校も児童相談所も、守れないと言うなら、
いったい誰が、子どもの命や人格を守れるのか?
全容が分かるにつれて、何か別種の問題が疑われます。
日本人は世界の民族の中でも、ずば抜けて子を大切にし、
子どもを中心にした文化さえ、栄えた国だったのに、
現代ではその絆が、子どもたちの命さえ脅かしている。

子どもを養育する権利も義務も、両親が担いますが、
そこには人格や個人の権利を守る、と言う意識が希薄です。
親子は一体として扱われ、時には子どもの人格よりも、
親の意思が優先されて、子は親に従うしか無い。
親から虐待されても、どこへ逃げれば良いか知らず、
ひたすら親に謝って、そのまま死に至ったりするのです。

それにしても心愛ちゃんは、食事を与えられずに、
夜寝ることも許されずに、真冬に冷水を浴びせられた。
旧陸軍の拷問を彷彿とさせる、このような仕打ちをしてまで、
10歳の女の子を痛めつけたのは、何故なのでしょうか?
学校も児童相談所も、親の暴力に気付かない振りをして、
ついには死に至るまで、彼らを見逃していたのです。

個々の当事者を責める気持ちは、僕にもありますが、
人は誰でも完璧ではないので、補完する仕組みが必要です。
暴力的な脅しに屈さない、と言う意味で考えれば、
個人に背負わせることは困難で、国家が負うしかない。
強制的に人を拘束したり、罰したり出来るシステムによって、
命や人格を守るとする、確固たる意思を示す必要がある。

成人して独立した人でも、何かあると親が出てきて、
自分のことのように、話す人が多いのが日本の特徴です。
欧米では親子と言えども別人格で、子どもも自立を求められ、
家庭でも学校でも、自立支援が教育の大きな目標です。
同じ家の中にいても、親子は別の部屋で寝て暮らすほど、
親子は別人格とする権利と意識が、しっかり根付いている。

子どもの権利を守れない親からは、国が子どもを保護して、
自立して暮らせるように、面倒を見るシステムもある。
アメリカなどでは、親が子どもを守らなかった反省から、
1970年代には、子どもを守る法律が出来ており、
警察や司法が連携して、断固とした態度で子を守ります。
しかし日本では親が優先して、子の権利は後回しなのです。

今回のように悲惨な事件が起きてから、騒ぐのではなく、
普段の生活から、子どもの命や権利が守られるように、
二重三重のシステムと、断固とした法の介入が必要です。
現代のように、個人の力ではどうにもならないことが多いと、
社会は新たな責務を担うしかなく、その方法については、
多くの人が知恵を出し合い、構築していくしかないのです。

今の日本社会は、もう昔と同じ日本社会ではないのです。
昔の文化や感性を大切にしたくても、現実はそうはいかない。
街がそうであると同じように、土に根ざした潤いは失われ、
人は労働力や消費者としか、見られなくなっています。
この価値観を打ち壊さない限り、子どもも守られないので、
まずは価値観の再構築が、重要な時代になったのです。