「ディラックの海辺にて」を書いた頃
将来は映画の仕事がしたくて、大学へ進学しましたが、
当時は専門的な勉強をできるところがなくて、立教大学へ。
そこで放送研究会に入り、いくつかラジオ番組を作って、
NHK放送センターで、出演者フロントのアルバイトもやりました。
NHKの管理職の人から、アナウンサーにならないかと、
お誘いも受けましたが、当時はそんな気にはなれなかった。
映画を作ることに憧れながら、放送や映画の作品作りは、
大勢の人が関わるために、個人の微妙な主張は伝わりにくい。
そこで一人でコツコツと、小説を書くようになって、
やがて原稿書きに夢中になり、一人で旅をするようになる。
それまで力を注いでいた、放送研究会の活動も疎遠になって、
出版社の小説新人賞で、予選を通るようにもなりました。
初めての沖縄旅のあと、部屋に籠もって小説を書き、
その時書き上げたのが、「ディラックの海辺にて」でした。
確か原稿用紙360枚くらいの作品で、当時はパソコンもなく、
書き上げた作品をコピーするために、池袋へ持って行った。
何ヶ月か部屋に籠もって書いていたので、運動不足になったか、
池袋駅の階段で足がもつれ、10段ほど転げ落ちています。
そんな風に書き上げた作品でしたが、いったんしまい込み、
その後は沖縄の長期滞在を経て、那須で住み込みのアルバイト。
NHKのアルバイトと、那須のアルバイトで貯めたお金に、
友人からもお金を借りて、アメリカへ渡ったのです。
最初は定住しても良いと思った、L.A.だったのですが、
何か違うと感じて、結局は1年半で日本へ帰ることになる。
そこで東中野の日本閣に、アルバイト先を見つけると、
その近くにアパートを借りて、新日本文学学校へ通います。
その時あらためて、「ディラックの海辺にて」を書き直すと、
学校同期の人たちに、作品を読んでもらうことになります。
するとその中に、作品を気に入ってくれた人がいて、
100万円の活動資金を、無条件でいただくことになる。
作家活動をするなら、小岩のマンションが空いているから、
自由に使っていいと言われながら、そこへは行きませんでした。
ただし資金を元に、知り合いを介して作品を本にしますが、
配本条件を受け入れられなくて、ケンカ別れをしてしまいます。
それでもこの本によって、その後世話になる山浦さんと知り合い、
何人かの人と知り合って、交友関係が広がっていく。
本を読んだ現代文芸研究所の所長から、絶賛していただいて、
これを芥川賞に推したい、とまで言っていただきました。
だけど世の中はそんなに甘くないし、出版社の繋がり無しでは、
推薦と言っても、まともに取り合ってはもらえないのです。
それから僕は再び旅を始め、マイプリントで季節労働をして、
20代を通して、旅の暮らしを続けることになったのです。